恋愛証明書(2011年版)
以前1回やった恋愛証明書。 私の恋愛身分証明書 – 彼氏や彼女をつくる前に恋愛身分証明書を提出することは法律で義務付けられています(?) 法律で恋愛証明書の提出が義務づけられたようなのでやってきた – nplll 某まとめブログで見かけたのでまたやってきた。見て面白いもんでもないですがなんとなく貼っておきます。
以前1回やった恋愛証明書。 私の恋愛身分証明書 – 彼氏や彼女をつくる前に恋愛身分証明書を提出することは法律で義務付けられています(?) 法律で恋愛証明書の提出が義務づけられたようなのでやってきた – nplll 某まとめブログで見かけたのでまたやってきた。見て面白いもんでもないですがなんとなく貼っておきます。
昨日見かけたこれ。
酷い話だと思う。何が酷いって最初の対応。YahooのFlickrが、マイナスの意味で名を広めてしまう大失敗をやらかしてしまった。話はこうだ。ITアーキテクトでFlickr利用者であるMirco Wilhelmが昨日、5年来利用しているアカウントにアクセスできなくなってしまった。Flickrチームに問い合わせたところ、なんとアカウントを事故により削除してしまったというのだ。アカウントには4,000枚の写真が登録されていた。すべてが消え去ってしまったというわけだ。 Wilhelmが先週末に、盗用画像を掲載している利用者についてFlickrにレポートしたところ、盗用した側ではなく、Wilhelmのアカウントを削除してしまったということのようだ。
アカウント自体は再度ご利用頂けます。但し登録されていた写真については復元できません。当アカウントにて永らくご利用いただいていたことはよく承知しております。不注意により重大な結果を招いたことにつき、改めてお詫び申し上げる次第です。アカウントのリストア作業が完了いたしましたら、当該アカウントについては4年間の有料アカウントを提供させていただきたいと考えております。
ある日の会話にて。 秋葉原の休日の風景を撮影した写真を見て友人が「気持ち悪い」と言ったので、オタクだからって言うんで差別をするのは良くない、と僕は言ったのだけど、言ってすぐに僕の発言は極めて見当違いだと気づいた。 友人は見た目が気持ち悪いから「気持ち悪い」と言っただけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。そして確かにその写真に写っていた彼らは、まぁなんというか、お世辞にもオシャレではなかった。僕はそれをそれで良しとする人間だけども、それは人によって違うだろうし、一般的な感覚からしたら多分、そうなるんだろうな。 それに対して僕は「オタクだからって」と言ったのだけど、じゃあオタクだから見た目がオシャレでなくても気持ち悪いわけじゃないのかというと別にそうじゃない。オタクだろうがオタクで無かろうが、気持ち悪い人は気持ち悪い。それを口に出して言うかどうかと言う点においては議論の余地があるにしても、オタクであることを理由に「気持ち悪い」と言うことを許さないのは、それは、差別だ。間違えやすいけど。差別していたのはその友人じゃなくて、僕の方だ。 そのことに気づいて、愕然とした。 似たようなことが色んな差別の構造の中であって、そういうことに違和感を感じているのにもかかわらず、対象が少し違ったらこの有様だ。僕なんか、全然、大したこと無いなぁ。 ちょっとショックだった。
昨日のほぼ日。
やー、鶴瓶さんの言葉が凄く入ってきた。鶴瓶 むかし、上岡龍太郎さんに よく言われたのは、 「おまえは、どんなに面(めん)を打っても、 面を認める人間やな」と。 だから、「面」って、剣道の面ですよ。 糸井 ええ。 鶴瓶 「面ーっ!」 て来ても、逃げない。 打たれてんねん、こないして(打たれてる仕草)。 「はい、わかりました、面」。
昨日、さかなくんのこんな記事があったので…
うはwwwと思ってはてブ経由でツイートして、 1日経ったらこうなってた。(クリックで拡大) おーいー。 (CV/NACS森崎さん)「スヌープ・ドッグ」と言えば、アメリカでは誰しもが知っている人気ラッパー。ドクター・ドレーとフューチャリングした曲『Still D.R.E. 』や『Next Episode』はリリースから10年以上経った現在でも、多くのクラブで流されている名曲だ。 音楽の面でも非常に人気の高い彼だが、独特の奇抜なファッションも、人々から注目を得ている部分のひとつ。 そんなスヌープだが、最近とある有名な日本人を彼が心からリスペクトし、かぶっている帽子をマネしていると海外で話題になっている。 その日本人とは、絶滅したとされる魚「クニマス」が生存している事を突き止めた、帽子が特徴的な人気タレントの「さかなクン」である。
Twitter上で自分が思ったことをつぶやいたり、誰かのつぶやきに返信したり、返信もらったり、おはようとかおやすみとかおかえりとか挨拶したりしてたら、なんだかネトゲ思い出した。僕がいちばんやってたのは『リネージュ』だったから、もうかれこれ7年くらい前(リゲ鯖が出来たくらい)なんだけども、なんとなく。チャットライクだけどチャットじゃない感じとか。
こんなのを読んでちょっと思ったのでメモ書き。
今の日本では、ソーシャルメディア、SNSなどのソーシャル関係の定義がめちゃめちゃで、混乱しています。その混乱の元となっているのが、「自称ソーシャルメディアマーケタ―」の方々による誤ったソーシャルへの見解が蔓延していることにあります。 彼らは哀しいことに、CGMやUGCなどの「人が集まる場所」と、ソーシャルメディアの区別がついていないのです。そこで、ここではソーシャルの定義をはっきりとさせたいと思います。
現在、一部のWeb技術者の間でFacebookが「流行中」です。僕はその動きを比較的早くから見ていたのでなんでそんなことになっているか結構把握しているのですが、それを知らない人にとっては、降ってわいたようなFacebook賞賛(Facebookと言えばMySpaceと同様に「欧米じゃ流行ってるらしいけど実際イマイチ残念なSNS」というイメージが強い)に戸惑っているようです。 ここで改めてFacebookの何が優れているかを書いたところで屋上屋な感は否めませんし、他の人たちと同様、ステルスマーケティングだ、仕込みだと言われるだけ(真面目にマーケティングに取り組んでる人は泣いてるだろうね。やっぱり「マーケティング」ってそんな評価なのかと)なので、むしろ逆にこれまで使ってこなかった理由を書こうと思います。
「損得で考えてしまう」というのはつまりこういうようなシチュエーション。 家族に何か頼まれたときに「いつも俺ばっかり頼まれて、たまには俺の頼みも聞いてくれないとフェアじゃない」とか、恋人に何かを頼むのに「この間はアレやってあげたから今日はこれやってもらおう」とかそういうの。 「理屈」としては間違ったことを言ってるわけじゃないんですけど、なんだろうな。自分と相手の仕事量の不公平さとかを、身近な人とのやりとりで考えたくないんですよ。お互いに相手にしてあげることとの動機付けとしての「埋め合わせ」があっても良いけれどもそれは本心ではなくて、なんなら「丸損」だって全然構わないし、ボランティアで良いじゃない。別に代わりに何かをしてもらおうと思って親切にしているわけじゃなくて、そういう打算とかじゃなくて、ただ単純にその人のためにやってあげようと思うだけだから、対価とか考えたくない。 普段はそんなことは全然ないつもりなんですけどね。 でも何らかの理由でイライラしてたり疲れが溜まってたり、心の余裕がないときにふっとそういう考えが心に入ってきて、「このところずっと俺ばっかり働いてるぞ。たまには自分も動いたらいいのに」みたいな思考になったりするんですよね。それは「理屈」としては正しいかもしれない。 でも別に「最近自分ばっかり動いてる」のが恒常的に背負わされた負担というわけではなくてシンプルに「その時だけ」「たまたま」だし、大体「このところずっと俺ばっかり」ということ自体が誤解で、始点をそれよりもうちょっと遡れば、実は前回のバーターで「このところずっと俺ばっかり」なのかもしれないし、一定スパンでの役割分担的な意味合いでの「繰り返し」なのかも知れないし。そんなのぶっちゃけ覚えちゃいないよね。 まぁそんなわけだから、これが仕事とか罰作業とかならともかくとして、少なくとも身近な人とのやりとりで損だの得だと考えても仕方ないし、そんなちっちゃいこと考えずに頼まれたらそれは快くやればいいし、頼みたいときには頼めば良いんじゃないのかと。やあ、目標であってなかなかそんなに自分をコントロールできないんですけどね。大事にしたいと思っています。
恒例の、FridayFive。 今回は、さまざまなテクノロジーについて。 thefridayfive: The Friday Five for 24 September 2010 過去ログ: Archives: Friday Five