『違和感』を言葉に落とす作業。

『イベントについて』の文章の初稿を書き上げたんだけど、予想以上に大変。 どう書いても、偉そうになってしまう。 僕としては、知っていることと、感じていることだけを書いているつもりなのだけど、 どうしても、仮定→検証の間のどこかに、断定を入れざるを得なくて、 結局それが自分のことではないために、その断定に対して、 また検証を行うという、多角形の辺の数を増やして円に近づけるような、 または、積分のような、そんな文章になってしまった。 現在…軽く2,000文字を超えてますが。 (これでもいくつか項目毎切った) 何度も書いているとおり、 論理的というのは、論理に従って考えていく…わけではなくて、 僕の場合には、はっと気づいたらある地点に立っていることが『解って』、 そこまでどうやってきたのか、どうやったらこれるのか、 そこがどんなところなのか、ということを、 後から検証して言葉で説明しようとするのだけど、 そこに不確定要素、例えばイベントについてなら、 そこに登場するイベント毎の事情、性格…知らないことの数だけ仮定が出来るわけで、 それらを十分な検証無しに断定することなく、 できればそれらすべてに共通するような(=メタ的。幻想だが)、 そんな文章を模索することになるわけで。 と、同時に、読者を意識して書く以上、 まず読んでもらわないといけないし、読んだら解ってもらいたいし、 疲れるような難解な言い回し(語彙とか、抽象とか)は避けて、 実際的な言い回しを使う必要があるし。 感覚を、そのまま人に差し出せたら、どんなに良いかなぁ、と思う。 でも実際にそれをやっちゃうと、 ただ『周りが見えてない人』になるだけで。 日本語で喋ってるのに全く伝わらないという、 アホで間抜けな事態になるだけなんだよな… 何でそんな面倒なことをやろうとしてるのか、本当に疑問だけど、 結局、そういうことが好きなんだろうなー なるべく入り組んだことを、誤解されずに正しく理解してもらいたい、 または、理解できるような文章を書きたい、というような。 曖昧で、印象的な言葉を使って、 ぼかして、雰囲気だけ伝わるような言葉で書くのは簡単なんだけどね。 大事なことに対してそれやっちゃダメだろう、と。 まぁ、普段のコミュニケーションでも同じなんだけどね。 肝心の文章の方は、今週中くらいにはアップできる予定です。 お蔵入りにならなければ。

続きを読む

奥歯に物の挟まったような言い方をするんじゃない。

どうもなー昨日書いたエントリが、自分でもしっくり来なくって、 無用な心配とか苛立ちとか生んで、余計な気を遣わせてしまうんではないだろうか、 なんて思っているんだけど、 要は、いろんな友達のことを考えると、 『こういう人には会いたくない』なんてことは書けないから、 こういう状況になっているんでしょうね。 奥歯に物の挟まった言い方。 昨日の文章は相変わらずわかりにくいけど、 どうも、会う気分になれない人、行く気分になれない場所があって、 (それが嫌いになったわけではなく、一時的に) それぞれ個別の理由があるんだけど、 総括して言うと結局どういうことなんだろうね? でも総括して言ってしまうと、それに当てはまらない人もたくさんいるだろう? それじゃあ、それぞれについては、言い訳が必要だ、と。 そうやって論点がどんどんぶれていく。 (この文章も同じく) 一般的に、直接的にせよ、間接的にせよ、 人に向かって『私はあなたに会いたくありません』、とは言わないもの。 気を遣うまでもなく(苦笑) そんなことをわざわざ言う必要はないんで。 本音を言うと、 自分自身がそういう状況なんだけど、どうも『微妙な接触』が多くって、 なんだかなぁ、余り巻き込まれたくないなぁ、と思ってる。 それをちらりと見せたい、ということなんですよ。多分。 あーやらしい文章の書き方してるなぁ。 …やなヤツになってんな。 なんだか知らないけど。 うーむ。

続きを読む

どうもこのところ。

別に、人が嫌いとか、嫌いになったとかそういうことではないんですけれども。 射程範囲が、以前に増して、狭くなったような。 数年ごとに、環境を一新する傾向があるのだけど、 (高校卒業しかり、馬術部引退しかり) 何となくそんな感じ。 知り合い、友達の友達ですら、会うのがキツイ時があるし、 妙に疲れてしまう。 マイナス方向の、『何やってんだ俺』。 『何やってんだ俺』にはプラス方向なモノもあって、 多くは苦笑いを伴ってやってきて、 なんだかなーと思いながら自分の予期せぬ方向へ事態が流れていくのを楽しんでいる。 そういうときは楽しい。 でもマイナス方向のとき、 あーなんだたとえば、ちょっとした義理でパーティ会場に出席して、 隅っこの方で会費分くらい食べてるときとか、そういうのだ、 こんなことやってないで家に帰って風呂にでも入ればいいんじゃねーか、 そう思うと、もうなんか居ても立ってもいられなくなる。 いつもそうなわけではないのだけど、 ここ2ヶ月くらい、そんな感じが強い。

続きを読む

Amazonカスタマーレビューの件

はてなのNaoyaさんが、Amazonカスタマーレビュー における、 FF12に関するレビューに対して、 作品は制作者にとって大事なものだから批判(批評)はもっと慎重にしてもらいたい、 というような趣旨のことを書いていた。 (多分このまとめ方で合ってるはず) naoyaグループ – naoyaの日記 – 作品を批判すること それに対して各方面で、様々な意見が出ていたのだが、 なーんとなく、その日記に対する批判と言うよりも、 インスパイアされて書いたものを、反対意見と位置づけているものが多いような気がして、 なんだか話がかみ合っていないなぁ、と思いながら眺めていた。 (結局、Naoyaオレオレ主義とか感情論、人格攻撃に達してる人もいたりね) 例えば、プロなら批判を受け止めろ、というエントリ。 その表現自体は正しいと思うのだけど、 それって『ナオヤエントリ』の反対側の意見かな。 なんか違う。 受け止められる批判が、クソゲーっていうレビューなのかという。 そのどこに受け止める要素があるんだって言う。 (実際どう活用されてるかはともかく)参考にする人がいるレビューなんだから、 ちゃんと書け、と。 そのレビューのどこに、プロがプロとして受け止めるべき要素があるのか、 ただ、反対票プラス1なだけなんじゃないのか、っていうね、 匿名がどうとか、無責任がどうとか、クリエイターが可哀想とか、 そういうことじゃなくってさ、 そういうことはAmazonじゃなくてブログで書け、と。 僕はそういうことを思うわけですよ。 で、続いて、そこに上げられていたリンク、 Game Programmerグループ – Nao_uの日記の、 FF12に対する感想を読んでみる。 実際にプレーしながら感じることが、箇条書きながら細かに書いてあって、 もしコレがAmazonレビューならどんなに役に立つことか、と思う。 このエントリの批評を読んで、傷つくクリエイターはいないでしょ。 もし、これすらダメージだとナオヤさんが言ってるんであれば、 そういう人はコミュニケーションは止めた方が良いなぁ。 クリエイターは止めて、アーティストになりなさい。 でも、僕にはそうは取れなかった(あくまで僕の価値観)し、むしろ、 批判するんであれば、こういう形の批判をして欲しい、といってる気がする。 そういう点で、ナオヤさんと、Nao_uさんとはちっとも食い違ってないように見えるんだけど、 僕の目は曲がってる? つーかそもそもの話。 Amazonのカスタマレビューってクソだぜ。 そこで目くじら立ててる時点で、どうかしてる。 だから、笑い話にしかならないんだよなぁ。 大体さ…発売前のゲーム、本、その他にレビューが一杯くっついてるのっておかしかないか? 今日現在、『MOTHER3』(4/20発売)にも、鬼のようにレビューがくっついてるけど、 そこは感想欄じゃねぇ、っつーの。 やってもねぇのに、☆5つとか付けるなと。 前作を褒めたいなら、前作を検索してそこにレビューを書けよ。 てめぇの思い入れを書くとこじゃねぇよ。 僕はFF12はやってない(それどころか9以降やってない)が、 前作踏まえてレビュー書いてて、 今回みたいにそれまでとは違った雰囲気になったら(未確認だけど)、 そのレビューは嘘だろう? クリエイターが傷つくとかどうとか知らんけど、 (あれ?話が違っちゃってるけど) 取り敢えずAmazonのカスタマレビューは何とかせいよ、と思う。 マジメに書いてる人もいるのに、 そうちょうど、Wikipediaと同じようなことだとおもうけど、 もうホント役に立たない。 そういうわけなので、あの役立たずのレビューに対して、 無責任とか、安易すぎるとか言う『批評』は、 もう殆ど意味がないわけでありまして、 前提条件を変えて、再度エントリを書き直すことをオススメします。 話はそれからだ。

続きを読む

『スクール・カースト』

スクール・カースト… まぁその辺キーワードに難しい議論が展開されているかもしれないのだけれども、 そういう中には例によって入りたくないので、 ネタをネタとして楽しんでみようってわけで。 Masaoさんの純粋なココロ 2.0を見てみると、面白そうなものが載っていた。

前回の記事で考えた、「趣味による差異化ゲーム」(他者承認)と「楽しむこと」(自己満足)は別物という概念。この概念でスクールカーストや脱オタを分析してみたら面白いことになるんじゃないかと思ったので、早速実行。
で、そうした、学校など(狭い空間)にありがちな、 『カースト』を視覚的に表現したMAPを、 (あくまでネタベースとして)作成されているんだが、 殊の外面白い。 一応用語を僕なりに咀嚼して解説すると、 生活の価値観を、他者承認と、自己満足の二つに大きく分ける。 『他者承認』は、まぁなんだろうな、友達の多さとか、クラスへの受け入れられ度とか。 『あーいたなーそんなヤツ』じゃない、『そうそう、アイツがさ』という存在感。 『自己満足』は、楽しいとか、嬉しいとか、そういう感情。 部活で充実してるとか、恋人が出来たとか、そういうことかな。 そう考えると確かに、そういう定義は成り立つね。 単純な三角形(ピラミッド型カースト)じゃないところも面白い。 で、人間の自己顕示欲などに基づき、 往々にして、『差異化ゲーム』、つまり、 誰かより持てるとか、スポーツが出来るとか、頭が良いとか、 そういう人より上にいるという優越感を味わえるようになりたいと、 多くの人が望む状況が生まれるわけだ。 『フォースの暗黒面』に堕ちるというのは、 そうした『差異化ゲーム』そのものを目的として、生き方を決めようとすること。 例えばさ… 『野球よりサッカーの方がもてるから、そっちにしようぜ』 とか、 『ホントはアニメが好きだけど、オタクって見られたくないから洋楽好きってことにしとこう』 とか、そういうこと。 その結果、本当にサッカーや洋楽が好きになれば、 友達が出来たり、いつの間にか輝いて見えたり、一生の趣味になったりするんだけど、 『差異化ゲーム』での勝利のみを目的にしてると、 結局はねやっぱり、あんまり楽しくない。 で、『僕はもう疲れたよ、パトラッシュ』状態に。 あーそういう人って、『学校』じゃなくたって、いるよね。ふんだんに。 そう考えると、学校生活って、社会の縮図…使い古されてるけど、 要は、想定しやすい要素だけを盛り込んだ、特殊な実験空間にも見える。 あんなに大勢の、自分と同世代の人間と、 狭い空間に隔離される状況、って『現実的には』無いもんね。 社会中心に見てみると、もの凄く不自然な環境だし。 その実験空間から得られる結果って、なんらかの形で、社会にも通じてるよなぁ。 まぁだからこそ、社会の比喩表現として、『スクール』が成り立つんだけど。

続きを読む

竹原慎二がヤバイ。カッコイイ!件について。

【相談】サラリーマンの悩みへ、クロスカウンター 竹原慎二のボコボコ相談室 ヤフーの広告につい引かれてクリックしてしまったんだが… えげつないほど格好いい。 なんだこれ?(笑) タイトルのネーミングもヤバイが、 竹原の一刀両断なコメントがまたイカス。

レベルの低い先輩達にウンザリです。 広告代理店勤務:Gさん(23歳)
入社して驚いたのですが、この会社はほとんどの先輩が名前も知らないような大学出身で、誰も資格を取るための勉強すらしていないのです。ビジネスやマネジメントに関しては勉強してきた私のほうが詳しいと思うのに、今は先輩から指示される仕事しかできない有り様。その上、先輩は私の事を“仕事ができないヤツだ”となじってきます。
これに対して竹原兄貴、
お前、何様だ?
おおお。
ヒルズ族とかに腹が立つ。 文具メーカー勤務:Kさん(53歳)
ヒルズ族と呼ばれている人たちをはじめ、最近の金持ちはラクをして私が到底手に入れることのできない大金を稼いでいます。 私のように一生懸命働いてきたものが報われず、株などのギャンブルで簡単に稼ぐ者がいい思いをしているこの世の中に、腹が立っています。
これに対して、兄貴、
別におかしかねーだろ! 世の中にはな、使う側と使われる側の人間がいるんだよ。あんたは30年も使われる側として安泰な身分でのうのうと生きてきただけ。なに寝ぼけたこと言ってんだ? ローリスクで生きてこられてよかったじゃねーか。
おおおおお! すげー。すげーよ、兄貴。 この相談者が納得したかどうかはわからんけど(笑)、 無理矢理、元気にさせられるよ。 日本初の世界ミドル級王者だもんなぁ。 日本人には無理って言われてた、中重量級でチャンピオンになり、 今もビジネスで頑張ってる人間にしか吐けないよなぁ。 ややもすると、情みたいな情(ただの馴れ合い)やら、 義理みたいな義理(損得勘定通過済み)やら、 そんな、一見肌触りの良いコミュニケーションが増えてる中、 きちんとした視点を持つのは大事だな、と思った。

続きを読む

障害と情報公開。

最近、さくらインターネットの障害情報があわただしい。 さくらインターネットの障害情報は、RSS配信に対応しているので、 例によって、DELCO READERに突っ込んでいるんだけれども、 どうもこのところ、レンタルサーバ、DNSサーバ、MySQLサーバ、その他色々と、 緊急メンテナンスやら、障害やらが頻繁になされているようだ。 障害情報というのは…難しいところにあると思う。 情報公開という意味では、積極的に公開してくれるのは嬉しい、 でも同時に、おいおい大丈夫か、という気にもなってしまう。 情報を公開する側としては、その辺、ジレンマなんじゃないだろうか。 下手に隠せば、それはそれで、信用できない、とか言われるだろうしね。 やっぱりあれかな、ブログ機能の搭載が、サーバ的に負担になってるのかな。 僕は必要ないんで利用してないけど、 そのせいで、サーバが落ちてる可能性はあるなぁ。 止めときゃいいのにねぇ。 重大な何かが、うちのサーバに起きないことを祈っとります。

続きを読む

(やはり)冷静ではない。

正確に言うと、冷静で居続けるのが苦手だ、ということか。 親しい友人は、僕がムキになるのを目撃する機会もあると思うので よく知っていると(僕は)思うのだけれども、 僕は元来、冷静な人間ではないし、気もかなり短い方だ。 それでも僕が冷静に見られるのは、 それを踏まえた上で、冷静たらんとしているからだろう。 理論武装、に関しても同じことで、 といっても僕の理論武装は所詮主観の発展でしかなく、 文献その他の裏付けが乏しい物が多いのだけれども、 要は、相手を打ち破るためだけに武装していると言うよりも、 それがないと、常にムキにならざるを得ないから、 とも言えるのかもしれない。 こういう性分は、年を重ねる毎に、 あまり外に出さずに済むようになってきてはいるけれども、 緊迫した状況や、仕事の上での話になると、 どうしても、冷静を保てなくなる。 無理に冷静を保つ必要はないのだけれど… 冷静を失うと、結局、筋の通らないことを口走ったり、 普段思っている感情をベースに発言したりして、 適切なコミュニケーションを取れなくなってしまう。 ムキになった時点で、負け、になってしまう。 三つ子の魂百まで、とはよく言ったものだなぁ、と思う。 多分これからも、日々、努力しながらも、 時々、そういう自分が顔を出していくのだろうな。

続きを読む

自分で調べるということ。

英語の勉強をする上で最も大事なことは、自分で調べること。 それも、ただ辞書と首っ引きではなく、その単語の意味を想定し、 文意をきちんととらえた上で辞書を引いて、正しい意味を選び出すこと。 受験勉強の中で学んだことの一つだ。 何か解らないことが出てきたとき、人はどのような行動を取るだろうか? 基本的には、3つに絞られる。 1) 書籍やネットで調べる。 2) わかってそうな人に聞く。 3) 特に何もしない。 ものをよく知っている人というのは、別に最初から知っているわけではなくて、 好奇心と、疑問に思う感覚から、調べて知っている。 片っ端から人に聞いて回るというのも、手段としては正しい部分もある。 自分一人では限界もあるし、正しいとは限らないから。 でも、何かがわからないときに、『何?』って聞くんではあまりに芸がない… 常々感じているのだけど、 安易に人に尋ねる人ほど、そのことをすぐに忘れてしまう。 今目の前に誰かがいて、その人が話題にしていることがわからないとき、 それは、疑問を持ち帰るより、その人に聞いてみた方が良い。 場合にもよるけれど、大抵はそのことを話したくて仕方ないわけだし、 そのことについて、きちんと説明してくれる。 それ踏まえて、相手が言いたいことも良く理解できるようになる。 聞くにせよ、何にせよ、意図がないとダメってことだ。 隣の人間に何となく尋ねることと、 有識者に会いに行くこととでは、同じ『聞く』でも全く違う。 後者はむしろ、調べるに近い。 大きなこと、例えば結婚式を挙げるのにいくら掛かるんだ、とか、 そう言うことに関しては、一生懸命調べる人も多いだろうけど、 日常ふとしたことに対してはどうだろう? 2)や、3)のような接し方をする人が多いような気がする。 それは、結局、気付いていないのと同じだし、 ぼんやり生きてるなぁ、っていう人は、そんなところが違うんじゃなかろうか。 楽しくコミュニケーションするコツのひとつは、 相手の話題とかぶらない話題をたくさん持つこと、だと思う。 もちろん、同じ話題で一致することも重要なのだけど、 僕は、これを持ってる、君はそれを持ってる、と、 お互いに見せ合うことが大事で、 君はそれ持ってる、それ何?それ何?それ何?それ… では、コミュニケーションは成り立たないし、あまり楽しくはならないかもしれない。 世の中に、調べる人と、調べてもらう人がいるのではなくて… 調べてもらう人は、調べる人のおこぼれをもらっているだけなのだと。 自分で、少し動いてみるだけで、 本当にいろんなことを知ることができるのに、 それをしない人はもったいないなぁ、と思う。

続きを読む

『首振り』

『首振り』と聞いて思い出すのは、扇風機か、『NO』のサインだけど、 ここでの『首振り』は、サッカー用語。 主に、MFに対して求められるテクニックで、 広い視野を獲得するために用いられる。 人間の視野角に関しては、いろんな数字が上げられているが、 しっかり認識できる範囲で、136度。 周辺視を含めた認識可能な範囲は180-200度と言われている。 でも現実には、誰もが知っているとおり、 左右360度、上下360度に渡って世界は広がっていて、 僕らの見ている世界は、そのうちのわずかでしかない。 (仮に上下左右136度だとすると、全体の15%程度だ) だから、より多くの情報を得ようとすれば、 『首を振ること』が頻繁に必要になってくる。 サッカー選手で言えば… 例えば、パサーとしてのMF、中田英寿や、中村俊輔は、 パスを通す場所が『見えている』わけではない、 彼らはそれを探して、見つけ出しているのだ。 もちろん、どこの辺りから見ればいいかというのは、 才能でありトレーニングの結果であるとは思うけれど、 あくまで、していることで、意識下にあることだ。 日常生活で言うと、 何となく見えているものを、見ていると勘違いして生きていることが多い。 僕自身ももちろんそうなのだけど、 『近すぎて見えない』 というのはつまり、解っているはずという思いこみにより、 それをきちんと見ることをさぼっているために起こる現象。 いろんな面白い物や、新しい物を発見するのは、 能力ではあるけれども、それと同時に、技術でもある。 普段歩いている道すがらに新しいカフェが出来ていたとしても、 それを見ていなければ発見は出来ないし、 普段から見ていなければ、それが新しいかどうかも解らないだろう。 見るというのは、同時に継続的な行為でもあって、 僕らが情報を手に入れると言うことは、その場その時の対応だけではなくて、 前後と比較し、何か他の情報を生み出すためでもある。 何か、社会学的に理由があるのかどうかまではよくわからないけれども… そういうことをさぼっている人は、街に非常にたくさんいるような気がする。 もちろん、何も知らなくても生きていけるのだけど、 僕の場合、興味や好奇心がその結論を許さない。 日常生活に諦めているのかな? 毎日同じで変わらない生活、よく聴く言葉だけど、 半分は真実だが、半分は真実ではない、 仮に日常を皆で共有しているとすれば、 誰かにとって毎日何かが起きているなら、 日常が単一であり続けるわけはないし、 変化を見逃している、または、 自分の生活に興味を失っていると言うことではないのかな、と。 僕のように、バカみたいに見た物、感じた物を書き殴る必要はない、 寡黙で良いのだけど、 本当になにも感じずに、話すことが無くて黙っているのとは意味が違う。 あなたは毎日、何かを感じていますか? 感じていないなら、 もう少し、首を振って生活すると良いですよ。 きっと、何かが変わっているはずだから。

続きを読む