社内の議論では、視点を色々持たないと大変なことになる。ような。
最近の仕事としては、Twitterその他のサービスと連携したり、長年「そういうもの」で放置されてきた業界的なというか自社的な基準を改める方向で企画を進めたりみたいなことがあるんだけども、「会社の」とか「仕事の」とかの議論になったときに一番有利な人は、説得力のあるカードをたくさん持ってる人なんだよなぁ、と思うことがしばしば。
最近の仕事としては、Twitterその他のサービスと連携したり、長年「そういうもの」で放置されてきた業界的なというか自社的な基準を改める方向で企画を進めたりみたいなことがあるんだけども、「会社の」とか「仕事の」とかの議論になったときに一番有利な人は、説得力のあるカードをたくさん持ってる人なんだよなぁ、と思うことがしばしば。
Twitterドラマとか言うのをやってるらしいですね。 まぁ興味全くないんですけど。 んで、「Twitterドラマ」を銘打たれてる割に実情とずれてるってことなのか?単につまらないってことなのか?批判が随分と集まってるらしく、脚本を担当している北川悦吏子さんがぶちギレの様相。 以下、発言。現在は削除されてる見たいですが。
昨日の原宿の件に関する情報がTwitterでたくさん出ていたのを見て、そういえばスマトラ島沖地震(2004年)の現地情報がFlickr経由で広まって話題になったなぁとか思いだした。メディアは変わったけど、求めることや情報の速さに対する驚き、質の偏りやデマの数などの特徴は6年前から別に何にも変わってない。唯一変わってることと言えば、Flickrに比べてさらに拡散速度が速いということくらいか。携帯電話で撮影してメールに貼り付けて送信すればすぐにTwitterのTL上に放流され、それをRTする人たちによってあっという間に拡散していく。例えば2分以内に全国で状況が把握できるような具合。 で、そういうことをさして、「Twitterすげえ」と無邪気に言うのは簡単だし実際僕も感じはするのだけど、結局の所情報の殆どはあてにならない。確かだと言えたのは現地からの複数の画像および動画だけであって詳細はマスメディアの報道を待つ必要があったし、それにまつわる「原因」の話も二転三転して結局はっきりとは解らない。事故の発生そのものがデマによるものだった可能性も否定しきれないし、それを媒介したのが何らかのコミュニケーションツールであることも納得はできるけど、それすら想像かもしれない。 でも、じゃあはっきりと解らない情報は「不確かだ」と言って捨てられるか、というと結局そうもいかなくて「ホントかどうかは解らないけど嘘だとは言い切れない」っていうポジションに置かざるを得ないわけで。完全に否定することは出来ないから、頭の片隅に置きながら注意深く「一時フォルダ」に格納することになる。ああ面倒くさい。鵜呑みにしちゃって一緒に踊るか、端から鼻で笑って距離取るかに決めておいた方が楽で良いのに。そんなわけにはいかないんだけど。 ただまぁこういう「鵜呑みにするな」的な話ってなんというか、絶対に浸透しない。僕が1つ年を取る毎に若者は1世代ずつ増えていくわけだし、そういう人たちに毎年訓示を垂れるのもただうざいだけだし、そもそもその上の世代もその上の世代もむしろ僕らと同世代も僕らの上の世代もみんな浸透していないのに、その次の世代に浸透するわけない。だから多分どんなに啓蒙したって、これはこういうものとしてそこにあり続けると思う。だから「個人でどうするか」ということだけで満足しておくしかなくて、誰かがそれに反するからどうこう言っても仕方がないのよね。ああ面倒くさい。
思いついてじっくり考えて書こうと思ったのだけど結局あんまり考えられてないのであっさりと思いつきの所だけ書くと、 要するに「コミュニティの発展と衰退」的な意味で似てるところがあるなぁとか。 以下、特に結論無く、思ったことを垂れ流し。
普通のコミュニケーション能力の話じゃなくてね。 ブログでもTwitterでも何でも良いんだけど、「自分の意見を書く場所では誰かのためになるような実のあることを書いていかねばならん!」と頑強に信じ込んでいる人に出会いまして、ああ世の中にはそういう考え方の人もいるのねぇと思いました。ぶっちゃけ、そんなの誰も望んでない…いや正確に言うと「全ての人間に常に望んでいるわけではない」んですけども、そういうのが解らないらしく、大して意味のない感想や反射的なコメント、お遊び、日常の記録、そういったことは全て時間の無駄なんだそうです。世の中はバカばっかりだそうですよ。なるほどね。あなたとは、 絶対に解り合えない(苦笑) 深く、思いました。 そろそろリタイアしようかという年配の人とかだとそういう人もいるのかも知れませんが、全然そんなことない人だったんで、 きっとそういう信念で生きてる人なんでしょうなぁ。
彼女の人と一緒に住み始めて約2年が経ちました。 大学進学を機に「1人で暮らしたい」という思いで実家を出て以来、「誰かと一緒に住む」ということを長らくしていなかったおかげで随分と色々手こずりましたが、最近はそれでもわりと慣れてきたのかなという感じはあります。もともと1人でいるのが全然苦にならない、というかむしろそれが好きな僕にとっては結構希有なことかなーと思ってたりもします。 ただですね、なかなか上手いこといかないなーということもありまして。 実家に帰ったりなんかして両親がしょうもないことで意見の不一致を見て軽く言い争ったりしたときなんかに、2分後には普通の雰囲気に戻ってるのはいったい何なんだろうかと。凄く不思議に思うわけです。子供の頃はそれで別に普通でしたけど、今見るとなんかもうマジックかなんかなのかと。 それが「年季」ってもんだっていわれればそれまでなんですけど、なかなかね、ちょっとした言い争いのあとそんなもん無かったかのようにすぐに元に戻るのは難しくてね。なんというか片方が気にしないようにしただけじゃダメで、両方がまぁそれはそれみたいな感じですよね。 性格的なものもあってそうじゃない人もいるんでしょうけど、なんかね、そういうのっていいなって思いました。 「喧嘩をするのが嫌だから喧嘩しない」だと確かに喧嘩はなくなるかも知れないけどもあんまり良い方向に行かないと思うんですよ。喧嘩するのは仕方がない、と。それよりもむしろ喧嘩の仕方とか、喧嘩の収め方とかの方でなんかやった方が結局は落ち着くよねという。でも性格的に僕は「上手く喧嘩できない」んですね。なんかね。気持ちの切り替えも下手だしねぇ。 そんなの考えてやっていたことじゃなくてやっていく中で作っていったリズムでしょうから、目指すもんとかではないような気がするんですけど、言い争いを忌避し続けて表向き仲良くてもなーというのもありつつ、かといってことある毎に言い争っていく中で築く信頼関係とかも僕にはしんどくて、何となくこの辺にいると楽だよね的な距離感を模索したいなぁと思っています。 まぁ人生は長いってことでしょうかねぇ… 両親だってもう40年くらい一緒にいるんだもんなぁ。
集合住宅での騒音トラブルというのはまぁよくある話で、うちのマンションでもあります。 昨秋までは同階の部屋ではよく赤ん坊が泣いていたし(子供さんが2人になって手狭になったので近所に引っ越された)、小さな子供がいるらしい真上の部屋では床を走ったり何かを落としたりする音が響いています。マンションの向かいの教会でも休日や放課後には子供が集まり大きな声で遊んでいます。ただ、そういう子供の声というのは不思議と気になりません。なんでですかね?
阪神・南信男球団社長(55)は5日、西宮市内の球団事務所で行われた球団年賀会で”メール禁止令”を発した。近年、メールのやり取りが増加して球団内の議論の場で突っ込んだ話し合いが行われていないことを憂慮しての強権発動だ。意見をぶつけ合うことがV奪回への第一歩-。あなたの会社の活性化にも役立つのでは?
家でする会話の大体5割くらいは今日気がついたこととか、お互いの仕事の話とか。 2割くらいが友達の話とか家族の話とか。 で、残った3割は大体、今日Webで見かけたネタとか、可愛い犬とかそんな話。 僕らは家で1秒もテレビを見ないので(2009年に僕が見たテレビ番組は、WBCと録画済みの徹子の部屋と清志郎の特集くらいで全部で10時間もない)、多分普通の家で「テレビを見ながら」とか「今日見たテレビ番組」とか「芸能人の話」とか言うヤツが、Webの話になってたり、その他の会話になってたりするんだろうなぁと思う。「テレビ見なかったら話すことがない」って言う人がいたけど、そんなこと無いよ。全然無いよ。 ちなみに「テレビをなんで見ないのか?」の答えは「ただなんとなく」以上のものはなくて、一般的に言われてるような質の低下とか、実はあんまりよくわからなかったりする(*)。質の推移がわかるほどテレビ見てないんだもんなー。だから、「テレビがつまらなくなった」というのはどうやらそうらしいっていう知識としてはあるんだけども、「最近つまらない」とか「質が落ちてる」とか言える人は、きっとテレビが好きな人なんだろうなーと思うわけです。 いずれまた、テレビをよく見るようになるときが来るのかしら。 避けてるわけでは全然無いから、何かきっかけがあればそうなるのかも知れないけどね。 * ニュース報道はともかくとして