「区切り」を越えていく
幼なじみやかつての同級生たち、大学、高校、中学、小学校あたりを見ながら自分のことを見ると、人生の「区切り」の有無に気が付く。多かれ少なかれ、また意図しようとしなかろうと、人生には区切りというものがあって、僕らくらいの世代までで言うと、
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幼なじみやかつての同級生たち、大学、高校、中学、小学校あたりを見ながら自分のことを見ると、人生の「区切り」の有無に気が付く。多かれ少なかれ、また意図しようとしなかろうと、人生には区切りというものがあって、僕らくらいの世代までで言うと、
夢というか何というか。 昨日は休肝日で早めに寝ました。なので今日はゆっくり寝て起きられるはずだったのですが、6時頃ドアが開く音を聞いて「寝過ごした!」と飛び起きまして。それは「朝起きる時間が過ぎてしまった」という「寝過ごし」ではなくて、「夕方で掛けるまでに仮眠を取っていたら寝過ぎた」という「寝過ごし」で、慌てて居間から玄関に通じる廊下のドアを開けたら、ぽかんとした表情でトイレに向かう彼女の人がこちらを見ており、
── 今何時? 彼女「6時」 ── 朝の? 彼女「うん」そりゃそうだ。だって朝だもん。暗いもん。最近18時ではこんなに暗くないもん。 呆然としてそのまま部屋に帰って二度寝しました。あれー? ちなみに何の夢を見ていたかというと、詳しいところまでは覚えてないんですが、大学時代の友人とか先輩とかとなにやら楽しげなことをやっており、僕自身も何か楽しいことに没頭していて、状況として「時間が経つのを忘れている」という感じであり、多分そういう感情的な何かのせいでこういう寝ぼけになったんだろうなあと思う次第です。 いやー焦ったわー
結果を一言で言うと、ほぼ「標準値」の範囲内。やたらと心配されていたγ-GTPは「31」(標準値は10~65)だったし、総蛋白(TP)も「7.0」(標準値は6.5~8.2)。下限上限近くでもなく大体中央値で、やれやれと言ったところです。考えてみればそんなに無茶してお酒飲んでるわけでもなく、付き合いで飲むお酒があるわけでもなく、そんなもんかな。でも自分の血液の情報を見るのは初めてなので(これまで健康診断を受けたこともない)、少し安心しました。 標準値の範囲内になかったのは赤血球数(RBC)で、標準値が425万~570万のところ「408万」。標準値を下回ると貧血が疑われるとのこと、なんですけど明らかに貧血といわれるのは300万以下らしいし、他の数値(MCV、MCHCなど)は標準値の範囲内なのでそう気にするほどではないかな。ヘモグロビン量(Hb)は普通なので鉄欠乏というわけでは無さそうだし、よくわからん。あるとすれば「溶血性貧血」かなあ。ジョギングのせいだったりして。 それにしても統計結果からの計算とは言え「標準値」ってすごいですね。自分が見事にその範囲に嵌まってて人間の状態ってこんな精度で決まってるもんなんだとちょっと感心しました。健康診断してる人にとっては当たり前のことかも知れませんけども。
「ハゲなのでモテない」と嘆くカメラマン。確かに30代前半にしてはかなり額が後退してる。だが気にするな。ハゲでもモテモテの男なんて世の中いくらでもいる。ハゲ大好きって女性だって絶対いる。あと、これだけは言っておく。お前はハゲだからモテないワケじゃない。モテない上にハゲてるだけだ。
— 片岡K (@kataoka_k) 2014, 5月 6
泣いた。でもまあわかる気もする。
あんまり周りに髪が薄い知り合いいないけど、スペインレストランのシェフがそんな感じだった。
離婚して今は独身で、最近女性にもてなくなったのを髪が薄くなってきたからだと言ってた(確かに頭頂部が少し薄くなってた)けど、でもフェアに見て女性にもてなくなったのは、離婚以来のあれこれで暗く陰気になったからで、見映えが劣化したからじゃないんじゃないかなあと思ってた。背が低いのも昔からだし。むしろ「ハゲなのでモテない」って言ってしまうメンタルのせいで余計に持てないってのはあるだろうなあと思う。解決すべきはハゲの方じゃなくそのメンタルと、そのメンタルの原因になってる生活や人生の問題を解決する、または区切りを付けることなんじゃ無いかって言う。「自分が禿げたときにも同じこと言えんの?」と言われたら「はいすみません、多分言えません」と言わざるを得ないけども。
僕はいつくらいに禿げるんだろうなー。
父方の祖父は90過ぎても銀髪でふさふさだったけど、母方の祖父は頭頂部から禿げてたんだよね。顔的に父方の祖父に似てるから僕も禿げないと信じてるけど、そんなのわからんもんなあ。
彼女の人が弟の息子の初節句を祝いに東京に行っていて3日くらい自由。 特別やることもないので、いつもはやらないようにしている「昼ビール」を久しぶりにやってみたんですが、だめっすわあ…… 元々そんなにお酒が強いわけではないんですけど、クラブで音楽聴きながらとか、バーでスツールに座ってとかだったら樋口さん以上諭吉さん以下が無くなる程度には飲めます。でも部屋で飲んだり座敷に座って飲んだりした場合には、3杯くらいでダウンできます。抗えない睡魔が。単純に睡眠不足な生活ってのもあるんですけど、落ち着いて飲んじゃうとだいたいそんな感じ。 んでさらにそれを昼にやるともうね、ビール(350ml)1本で試合終了です。圧倒的睡魔に襲われて2時間くらい再起不能になります。テンション上がってやりたいこと一杯あるのに……もう無理。おふとぅん→キングクリムゾン。必至です。 どうにかならんかなーと思うんだけど、どうにもならんので、昼間は我慢するしかないですね。わざわざウコンとか飲んで昼ビールするのもおかしな話だしなあ。昼から公園とかでビール飲んでる人が羨ましいです。最高に気持ちいいのになあ。
昔から興味はあったのだけどなぜだか縁無く(注射があんまり好きじゃないってのもあると思う)過ごしてきた献血。周りに献血に熱心な友達が何人かいて、この間そのうちの1人と話していてなんとなく「献血行ってみようかなー」「あ、γ-GTPとかも教えてくれるんだ。それは一石二鳥」と思って、思い立ったが吉日、京都四条の献血ルームに行ってみました。 献血場所のご案内 – 献血ルーム四条 | 京都府赤十字血液センター
「Review」と書いたけど、僕にはまだこれが読めません。 アイルトン・セナが死んだ1994年5月1日からもう20年が経つのか…… まだ冒頭のレオナルドの寄稿文しか読んでないけど、 きっと多分僕の中ではまだ整理し切れてないんだろうな。 ヘリから撮影された、上からの映像がまだ目に焼き付いてます。 でも目次見ただけでもわかります。 これは、アイルトン・セナを知っている人にとっては大事な特集だろうと。 きっと僕は気に入るんだろうな…… もうちょっと時間が掛かるかも知れないけど、ゆっくり読みたいと思います。 みなさんも、ぜひ。
「背景」ではなく「固有名詞付きのキャラクター」になるのはなんだろう? 僕自身も頑張る、もちろんね、でも。 「支えてくれる」とはなんだろう。 弱い立場の人間は見ている。見ている。 それが自分の立場に立ってくれているものなのか、自分のなにかを満たすためのアクティビティなのかを。 自分のことを考えていてくれるのか、それとも自身の苛つきを吐き出しているだけなのかを。 自分と相手は違うということを理解しているだろうか? 自分の中で正しいことが相手にとっても正しいと限らないと理解しているだろうか? それを押しつけることが負担になっていると理解出来るだろうか。 正しい答えなんてない、その時、その状況によって変わっていくだろうと思う。 でも、唯一正しいと言えることは、その相手が「支えられている」と感じられるかだろうとも思う。 僕はそれで上手く出来たこともあれば上手く出来なかったこともある、でも、 支えるって言うのはそういうことなんだろうと思う。 自分の意見を言うこと……それだけでは「支える」は半分だ。 相手が「どう感じるか」それがすべてであり、自分がどう感じるかはそれを上回ることはない。 「支えてくれる」とはなんだろう。
「袖振り合うも多生の縁」などと申しますが、個人的な性格としてその縁に縛られがちであると感じることがあります。「良いことも悪いこともすべて抱えて生きていく」というのは、僕がそうありたいと願っている生き方です。「嫌なことを無理に忘れようとしなくて良い」「いつまでも悪く見えるとは限らないから」という意味合いを含むのですけど、実際ちょっとした「窪み」に身をかがめながら考えてみると、「袖振り合っただけの縁」さえも後生大事に抱えている必要はないよなとも思います。自分にとって今はもう捨てて良い縁だってあるでしょうと。 わかりやすく言えば、くよくよいつまでも考えてしまったり、いつまでもこだわってしまったりして、スパッと諦めきれないということでもあります。以前住んでいた土地、以前通っていた学校、以前はよく会っていた友達、以前付き合っていた女の子、以前よく行っていた店、以前働いていた会社……などなど。ああ個人的な「予防線」としては「別れた女の子のことを思い出している」ということではないよ、とは書いておかないといけないのですけど(笑)、ともあれ、自分の中に残る過去の「縁」、ないしは自分にだけ繋がっていてその先は多分切れていると思われる「縁の線」、そういったものについて考えすぎるんじゃないかと。 この性格は昔から、それこそ小学生の頃からそうなので、「くよくよ考えずにさっさと切り替えよう」と正しく言われても、はいそうですねとすぐには変えられないものではあります。自分では気に入っている部分もあるんですが、程度ってもんがあるし、それにエネルギーを割いている場合ではないという時もあるわけでして、そういうとき、大体、周囲の環境との摩擦が起こってその対象と距離を取るようなことになります。相手に「いつまで縁が繋がってると思ってるんだ」と怒られるか、第三者に「いつまでも縁にこだわるな」と言われるか。あ、なんかこう書くと元ストーカーっぽい。そういう経験は無いですが。 暇だからあれこれ考えてしまうわけで、暇をなくせば自然に意識しなくなるものなのかも知れないのですが。でもクソ忙しいときにも、「忙」と「忙」の合間が過去の話に支配されていたときもあったしな……。年を取れば取るほど抱えるものが増えるというのは、なんかこう新しいHDDを買ってテレビ録画を始めた時の印象に似てる。2年後に「まさかこのHDDがいっぱいになるとは思わなかった」。 HDD内の録画番組の整理をするように、自分の中に抱える「縁」も自分で上手く整理を付けて、常に新しい風景を見に行けるような状態になりたいんですよね。でも難しい。それが正しいとはいつもわかっているし、その方が楽だと言うこともわかっているつもりなのだけど、実際に出来るかどうかというと別の問題になります。やれそうにないのにやるためには「無理にでも何かをしていく」しかないってのもわかってはいるんですけれど。struggle。
30歳過ぎて寝る前に家で飲む機会が増えまして、酒量としては外で飲むより全然少ない(多くても外で飲むときの1/3くらい)んですが、コンスタントに毎日なにがしか飲むみたいな感じになってます。健康のためには「1日ビール缶2本まで」「週に1日は休肝日を……出来れば2日」と言われていますけど、正直に言ってどっちもなかなか難しい。ビール2本飲めば3本目を飲みたくなるのが酒好きってもんですし、昨日飲んだから今日は飲まなくていいってわけじゃない、昨日の酒と今日の酒は違うぜってのが酒飲みってもんでありましょう。無理です。 「無理です」っていってもそれでも次の日にお酒が残ったり、眠りが浅くなって疲れが取れにくかったりすればやっぱりそれなりに反省するわけで、お酒を毎日楽しく飲むための、日々の生活リズムみたいのを模索しています。「模索しています」っていうとなんか偉そうですけど、要するにまー年取って無理出来なくなってきたって意味でもあります。同居人の厳しい目もありますし。告白するなら「飲み歩いてる人に比べれば、ほとんどほろ酔いまでごくたまに2日酔いなんて心配するレベルじゃないよ」とも思っているのですけど、実際に健康を害さない飲酒のレベルを考えれば「1日ビール缶2本まで」と言われているわけで、その正論にはなかなか反論しづらいものがあります。 というわけで、自らの健康を維持しつつ同居人を納得させ、かつ毎日の楽しみであるお酒を止めずに済むリズムとして最近導入したのが「休肝日週2日制」です。どの曜日を「休肝日」にしていするかについては色々と条件を考慮して悩みましたが、最終的に、「基本的に月・木、予定がある場合は前後にずらす」というルールで自分的一致を見ました。どちらもイベントが生じにくい曜日で、かつ、ちょうどバランス良い配置という感じで。 なんでそんなにきっちり決めるの?という点については、僕がきっちりした性格だから、ではなくて、僕がいい加減な男だからです。家事とか掃除当番とかでもそうですけど、きっちり決めておかないと僕って人は面倒なことは絶対にやりません。休肝日も同じで、ぼんやり「週2日くらいは休肝日作らないとなー」→ 作りません。これまでもなんとか週1日程度は休肝日を設けていたのですけど、間が10日になったりもしてました。いや「週1」ってそういう意味じゃないから。 ほんとに偶然なんですけど、最近、友達が健康診断のγ-gdp値がとんでもない数字(確実に何かの病気になっている数字)を叩きだし、「一生酒を断つことに決めました」と書いていたことも影響しています。正確にはそれは「休肝日週2日制」を始めた後だったんですが、さすがになー気になります。彼ほど無茶飲みはしてませんけど、仕事の付き合いも全くないし、やっぱりいつまでも若くはないんでね。今年こそは健康診断受けようかなあとも思っています。不安だし。自腹ですけどね。