男の嫉妬に当てられた話
「嫉妬」という漢字が両方とも女偏である通り嫉妬というと女性のイメージが強いけれど、男だってもちろん嫉妬しますよね。恋愛のこともあるし仕事のこともあります。人間として生きている以上、自分が持っていない他人が持っているものを羨むのはとても自然なことだし、ある程度の嫉妬は誰しも持っていることなのですけど、それが行動の指針や他人に対する感情の根本にあったりするとまぁいろいろと面倒なことになります。先日職場でふっかけられた喧嘩も根本は嫉妬でした。
「嫉妬」という漢字が両方とも女偏である通り嫉妬というと女性のイメージが強いけれど、男だってもちろん嫉妬しますよね。恋愛のこともあるし仕事のこともあります。人間として生きている以上、自分が持っていない他人が持っているものを羨むのはとても自然なことだし、ある程度の嫉妬は誰しも持っていることなのですけど、それが行動の指針や他人に対する感情の根本にあったりするとまぁいろいろと面倒なことになります。先日職場でふっかけられた喧嘩も根本は嫉妬でした。
いや、何かTwitterやっててそんなことを思ったので。 10代から20代前半くらいまでの人が、浅薄な知識と狭い視野で自らの思い込みを開陳して大人社会から反論を受けるみたいな構図って、Twitter上で割と日常茶飯事的に起きていることです。子どもの頃は認めたくなかったけど子どもには見えない事っていっぱいあるし。そういう場合の最終結論って、
街を歩いているとかわいい女の子にばかり出くわしますが、それで何かするかというと当然何もしません。 声は掛けないしじっと見ることもないし、ましてや突然女の子が悪漢に襲われてそこへ僕が颯爽と登場とか、目の前で定期を落としてそれを拾って慌てて追いかけるとか、パンをくわえた女の子と曲がり角で激突とか、そんなことももちろんありません。「女の子はかわいいなあ」と思いながら通り過ぎるだけです。 しかし興味がないかって言うとそんなことはなくって、お近づきになれるならなりたい。美人局はかんべんな!だけどまぁ普通に仲良くなれるならそれに越したことはないよね。ただ仲良くなって何をしたいのよ?といわれると何かすっと出てこなくて困ります。10年前なら「何がしたい?」って聞かれたらセックス一択だろJKで試合終了だったと思うのだけど、今、さっき通りすがった女の子とセックスしたいかって聞かれても、考えることが多すぎてなんか即答できない。「おくさあああん!」的な意味でも。そんなんでしても多分楽しめないと思うし。 そうか、じゃあ、ご飯食べに行くとか飲みに行くとかどうよ?といわれると、それはまぁ楽しそうだし良いのだけど、なんかさー段取り付けるの面倒くさくない?たまたま喋ってて「あ、その店気になってたんですよ、一緒に行きませんか?」的な流れで行くのは良いんだけど、わざわざアポイント取って店予約してってなんか面倒くさい。ちょっと暇な午後3時半とかに電話掛かってきてカフェにくらいだったら良いんだけども。 最終的にじゃあ何をしたら盛り上がるのか、楽しいのか、ということを考えたらば、「かわいい女の子と一緒に仕事したい」という結論に至りました。「一緒に仕事」といっても「僕営業、君受付」とかそう言うんじゃなくて、何かプロジェクトがあってその参加メンバーにかわいい女の子がいるって感じ。何か頑張ってしまいそうだし、成果を共有できるのは楽しい気がします。あ、単純にバイト仲間とかでも良いかな?コンビニで一緒のシフトに入ってる女の子とか。僕のコンビニバイトは深夜だったので相方は野郎ばかりでしたが。 現実を見て話すと、社内に女の子はほとんどいないし、仕事で「何かやりましょう」と言うことになって集うのは、自分と同じくらいかそれ以上の男性ばかりという環境なので、ええ、ないんですけどね。 ともかく、かわいい女の子に対する思いってそんな感じ。
「他人の行動をコントロールしたい欲求」は多かれ少なかれ誰にもあると思います。 まぁそれはねー仕方がないですね。 「自分はおおらかだ」という人がいるとしても、それは別に「他人の行動をコントロールしたい欲求」がないわけではなくて、その欲求を抑えることが出来るというだけですよね。大袈裟なことではなくて早くレジ通してくれないかなとか些細なことからね。 んで、Webってのはそういう欲求がとても濃密に渦巻いています。誰かの行動が気に入らないから禁止したいとか、自分をもっと認めて欲しいとか、自分と違う意見を持つ人に勝って自分色に変えたいとか。まぁわかるんですけどね。僕もそういうのが色濃い人間です。すぐ頭に血が上りますしね。 この間インターフェイスの例示としてTumblrのダッシュボードを他人に見せる機会がありましてね。 まぁ使ってる人はわかると思いますけど、Tumblrのダッシュボードってのはあんまり業務時間に人に見せるようなもんではないですよね。自分がそういう使い方をしていなかったとしても、フォローしている人たちがピックアップした画像、例えばある種いかがわしい写真なんかも平気で流れてくるからです。その時はそれを忘れて開いてしまって、さりげなく「ちょっといかがわしい写真もありますが」と言いつつ機能の説明をしました。 その時に他人の行動をコントロールできないということって要するにこういうことなんだよなぁ、と実感したのでした。 ずっと犬の写真だけ流していたAさんという人がいてその人をフォローしていたとします。 当然、今後もずっと犬の写真を流すことを期待してのことです。 そのAさんがある日急にポルノを流し始めたとしましょう。それは期待に反しますしポルノを不快に感じる人も大勢いるでしょう。でもそれを止めさせるのはTumblrのルールではありません。Tumblrのルールでは、不快だからと言ってAさんがポルノを流すのを止めさせるのではなく、フォローを外せ、と言うことになります。Aさんに好きな写真を流す自由がある代わりに、その他の人にはAさんをフォローしたりアンフォローしたりする自由が保証されています。どちらも自分の行動をコントロールする権利であり、他人の「自分の行動をコントロールする権利」を侵しません。 自分の「自分の行動をコントロールする権利」のために、他人の「自分の行動をコントロールする権利」を侵すのはどうもなにかおかしい。 自分の権利を主張すると言うことは、そういうことだと思うのです。 生きていれば、ある程度お互いに踏み込んでコミュニケーションを取りながら関わり合うと言うことはあります。 だから「他人の『自分の行動をコントロールする権利』侵さない」と言うことは、 他人に関与しないと言うことではありません。 そのところ微妙なさじ加減になりがちなんですけど、今してるのは話し合いなのか自分の欲求の押しつけなのかは 常に自分で気をつけていないといけないな、と改めて思ったのでした。 まーこれをポルノで思い出すのがどうかという話ではありますけどね。
ご本人はとても満足そうなのでとても複雑な気分です。
長いので三行でまとめると、iTea3.0: 【神対応】スティーブ・ジョブズ氏にメールしたらトンデモないことになった件
スティーブ・ジョブズ氏に送った1通のメールで全てが変わった。送ったメールに対する返信はなかったが、スティーブ・ジョブズ氏およびApple社の神レベルの心遣いに、「やっぱりAppleすげー」と感動しまくりだった。 この問題が解決してから、スティーブ・ジョブズ氏に御礼のメールを送信した。勿論、返信は来ない。 しかし、テキトーにスルーしてもいいはずの問題を、スルーせずに救ってくれたスティーブ・ジョブズ氏とApple社の厚意を、僕はずっと忘れないだろう。そして、ずっとこれからもApple製品を使い続けていくだろう。
prrr ガチャ ―― はい 「○○さんのお宅ですか」 ―― ええ、そうですが 「あーえーと佐川急便ですけれども」 ―― はい 「○○様宛のお荷物がですね、20時から21時の時間指定いただいてるんですけれども、その時間に行けないんですよ」 ―― は?
引き続いてのサッカーネタで申し訳ないんですけど、考えてみたら今度の試合って練習が実質1日しかなかったんですよね。1月のアジアカップではじっくり戦術を練る事も出来たと思いますが、そのあとはJリーグは開幕し欧州組はオフシーズン(ロシアは春秋なのでオンシーズンですけど)。6月のキリンカップ2試合も今回の韓国戦も直前に招集して打ち合わせてさあ試合、という感じだったわけですが…あれ、なんか意外に上手く行ってる…?サッカー選手が海外に出るようになった頃には、招集が難しいからチームの熟成が足りないとか、時間が掛かるとか、コミュニケーションが取れないとかよく言われましたけど…そういうのは結局言い訳だったんじゃないかと思いました。 今回は韓国もテストかはたまた準備不足かで物足りなかったので、この程度の準備で十分なのかそのうちぼろが出るのかはよくわかりませんけれども、コミュニケーションに限って言うと、海外組が増えれば増えるほど良くなっていくような印象があります。結局海外でサッカーをすると言うことは…最低限必要なことに絞った効率的なコミュニケーションで解りあって、戦術を練り上げるという作業なんですよね、きっと。言葉や文化の問題もあって十分に議論を練り上げると言うことは出来ないし。僕ら日本人は「コミュニケーションを取るための基盤を作る」ということを熱心にやりますよね。基盤を一度作ってしまえばその後のコミュニケーション1つ1つのコストが下がるという発想なのだと思うのですけど、コミュニケーションを取る方法ってのはそれだけじゃないんですね。もちろん場面によるとは思いますけど、例え基盤が無くても目的を共有して率直に意見を出し合えばコミュニケーションは十分取れる(=コミュニケーション1つ1つのコストが下がる)んだなぁというね。 今回の準備と結果を見ていて、海外組、それもそれぞれのチームのスタメンとして活躍する選手が増えたことによって、コミュニケーションを取る方法もまた変わったのかもと思いました。ベースにはアジアカップで練り上げた「基盤」があるんだろうとは思いますけど、そこにコミットしていなかった選手(清武とか)もきちんとパフォーマンスを残せているところを見ると、何か上手いコミュニケーションの取り方を見つけたのかなぁと。 そういうところは今までの代表にはなかったところだし、とても頼もしく見えます。みんな二十歳そこそこなのになぁ。そういうのは年齢じゃないってことだよね。凄いなぁ。
最近「人には最適な働き場所がある」ということをずっと考えていて、 何度か文章に起こそうとしてみたのだけどなかなか上手くいかん。 自分が知っている範囲が狭いからなぁ… しかしまぁ、それでも考えていることをメモして残しておきたいので箇条書き。
自戒も含めて書くので「お前が言うな」はご容赦いただきたいのだけど。 世の中、命令が多すぎる。 これから書く文章も命令であるという矛盾ではあるのだけど。 自分が気にくわない事象があったとして、それに対して「止めろ!」と言う。 特に最近では、大挙して「止めろ!」を浴びせかけるのがトレンドだ。 誰かに対して文句を言いたい人が世の中にたくさん、たくさんいるんだと思う。 だけど自分でもそういう憤りを感じながらふと考える、 自分に無関係ならどうでもいいんじゃないか。 誰かのスポーツ観戦の仕方が気にくわない、それは解る、でも君には関係がない。 赤信号を無視して横断歩道を渡るヤツが許せない、まぁ違法だよね、でも君には関係がない。 最近のトレンドは、誰かの悪行・愚行に対して自ら裁きを与えることなのか。 そうすることで何かと関係性を持ちたいのだろうか。自分を立脚するために? 君とは関係のない話に首を突っ込んで憤りを公共の場で晒すのは止めたらどうだろう。 そう、これも命令。 でも5秒くらいで良いから考えてみて欲しい、世の中の大半のことは、 気にしなかったら気にならないまま済んでしまうような事じゃないだろうか。 欠点を列挙して罵詈雑言を浴びせるのが趣味だというならそれは仕方がないが、 良識ある人間がそれを行う必要ってあるんだろうか。 誰も別に君のアドバイスなんか求めてないし、 君が実害を受けているのでなければ君の言葉を聞く必要性もないわけで。 良かれと思っていったり書いたりしてるんだろうけども。 誰かに命令して回るのをみんなで止めて、 もっと自分のことを考えるようになればなんかもうちょっといいことがあるんじゃないかと。 出来れば実害のないこと以外は気にしなくなれれば、 みんなが目を三角にして命令し続けるような、暮らしにくい社会ではなくなると思うんだけど。