寛容な社会でありたい、と思っている背景的な何か

自戒も含めて書くので「お前が言うな」はご容赦いただきたいのだけど。


世の中、命令が多すぎる。


これから書く文章も命令であるという矛盾ではあるのだけど。


自分が気にくわない事象があったとして、それに対して「止めろ!」と言う。
特に最近では、大挙して「止めろ!」を浴びせかけるのがトレンドだ。
誰かに対して文句を言いたい人が世の中にたくさん、たくさんいるんだと思う。

だけど自分でもそういう憤りを感じながらふと考える、
自分に無関係ならどうでもいいんじゃないか。
誰かのスポーツ観戦の仕方が気にくわない、それは解る、でも君には関係がない。
赤信号を無視して横断歩道を渡るヤツが許せない、まぁ違法だよね、でも君には関係がない。

最近のトレンドは、誰かの悪行・愚行に対して自ら裁きを与えることなのか。
そうすることで何かと関係性を持ちたいのだろうか。自分を立脚するために?
君とは関係のない話に首を突っ込んで憤りを公共の場で晒すのは止めたらどうだろう。


そう、これも命令。


でも5秒くらいで良いから考えてみて欲しい、世の中の大半のことは、
気にしなかったら気にならないまま済んでしまうような事じゃないだろうか。
欠点を列挙して罵詈雑言を浴びせるのが趣味だというならそれは仕方がないが、
良識ある人間がそれを行う必要ってあるんだろうか。

誰も別に君のアドバイスなんか求めてないし、
君が実害を受けているのでなければ君の言葉を聞く必要性もないわけで。
良かれと思っていったり書いたりしてるんだろうけども。

誰かに命令して回るのをみんなで止めて、
もっと自分のことを考えるようになればなんかもうちょっといいことがあるんじゃないかと。
出来れば実害のないこと以外は気にしなくなれれば、
みんなが目を三角にして命令し続けるような、暮らしにくい社会ではなくなると思うんだけど。