出来ることと、出来ないこと ―― 指導するときの「見積もり」、指導される時の「整理」

新しいことに挑戦しているとき、次のような葛藤が生じることがあります。

  1. 自分自身が作る「そんなことは自分には出来ない」という壁が成長を邪魔しているのではないか
  2. 出来ないことを要求されすぎて、どれを最優先にやっていけば良いのか混乱しているのではないか
一般的には、「モチベーションが高そうに見える」という理由で1が支持されることが多いでしょう。すなわち、「自分には出来ない」という壁を作らず、なんでも積極的に新しいことにトライしていくべき、と。それが出来ないのは歳を取って色んなことを知りすぎているからだ、というのも事実であろうし、年を重ねてから始めることの成長が遅い理由の1つでもあろうと思います。 ただ、大学時代の人馬の調教から始まって、色んな指導する人/指導される人のコンビを興味を持って見てきた僕の経験で言うと、その「なんでもトライしていく」姿勢をポジティブに捉えることが出来るための一番の要因は、本人ではなく、その指導者が状況をきちんとコントロールできていることです。与える課題が多すぎず少なすぎず、本人の能力を少し超えたものをちょうど良く与えているという状況があってはじめて、無心でトライしろ、ということが可能です。 逆に言えば、指導者が適切に状況をコントロールできていない状況での「なんでもトライしていけ」というアドバイスは、それは単なる戦術無き精神論であり、成長のための指針ではありません。本人に「混乱の芽」が生じていることを見て取って、課題や優先順位を整理し、状況をよりシンプルにしてやることが必要です。 「これが出来るべき」「出来て欲しい」という要求も大切ですが、大事なのはそれが本人にとってどれくらいのレベルの課題であるかを測り、要求を我慢すること。上手く行っていない指導の過半はその要求が過大で、指導される側が混乱するか、自信をなくすか、モチベーションを落とすかという状況になっていると感じます。もちろんレベルの見積もりを誤って課題が甘過ぎても(要求が過小すぎても)それは良くないわけですが、指導者には通常「よく出来る人」がなることもあって、要求が過大になることが多いです。「これが出来たらあれも出来るようになる」と考えたくなる気持ちは解りますけどね。でもそれは出来る人であるから見えることで、目の前のことを1つずつ処理している人間には見えないことです。 指導される側に回ってみると、自分に課されている課題が1なのか2なのかはっきりとは自覚できないのですが、それでも指導者が状況をコントロールできているかどうかは、少し見えます。真面目な人であればあるほど、自分の状況を無条件に1だと判断して、闇雲に頑張ってしまいがちなのですが(僕もそれで疲れてしまったことがこれまでに何度も)、出来ることと出来ないことをきちんと整理し、自分にとって必要なことを取捨選択しながら、1つずつ課題をクリアしていくようにすることが大事だな、そう思う日々です。

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人に解ってもらうのは諦めた方が良いんだろうか

あきらめたらそこで試合終了ですよ…?.jpg 自分の意見を上手く相手に伝えられないことがあるのは自覚してる。理解出来ない相手が悪いんじゃなくて、その相手が理解出来るような言葉や表現を選択出来ない僕が悪いんだろうな、とも思う。誤解を生む表現をしてしまっているときもあるかも知れない。僕が特別複雑に出来てるんじゃなくて、僕は僕を複雑な言葉、または僕にしか解らない言葉でしか伝えられないんだと思う。僕が「本当に理解して欲しいコアな部分」を解りやすく伝えることが出来ないんだと思う。本当に理解していれば安易な言葉で伝えられると言うし、僕自身の理解も浅いんだろうなと思う。 相手に理解して欲しいときには「理解していないな」と思う部分に力点を置いて、丁寧に説明を繰り返すことがある。それで上手く行くときもあれば、上手く行かないときもあって、上手く行かないときの代表例は「くどいよ」「話長い」と言われること。まあそれはその通りだから仕方ないし、「もうお前の話なんか聞きたくない」ということだから、「理解されなかった」という結論で引き下がる。 しんどいのは相手のリアクションが話からずれていて、いやそんなことじゃなく僕はこういうことを感じたというのを理解して欲しいんだ、と説明を繰り返そうとしたことに対して、「自分の意見を曲げない」「我を通したがる」「人の意見を聞こうとしない」と捉えられたとき。僕は相手の意見を否定したいわけじゃなく、まず、自分が理解されていないから理解してもらいたいだけなのに、その単純な思いが理解してもらえない。 まあ多分「もういい加減その話聞くの面倒なんだけど?」ということか、「興味ないけどこんな感じで相づち打っておけば良いだろ」と言うことなんだと思う。もしくは「お前の言うことは解ったよ、こうだろ?」ということかもしれない。そうじゃないんだけど。僕は純粋に自分の考えを聞いて理解して欲しいだけなのに、その自分なりに努力した上での行動を、「理解出来ない」と言われるだけならともかくその上、「人の意見を聞かない」と言われるのはとてもしんどい。 ま、今に始まったことじゃないけどさ。 僕はいつもそんなだったよ。 小学校のときも中学校のときも高校のときも、大学のときでさえそうだったよ。 多分、他人に僕を理解してもらおうと思うのが間違っているんだろうなあと思う。ふと思いついたことや感じたことを、安易に他人に喋るべきではないのかも知れない。僕にはそれを上手く相手に伝えるための言葉がないから。「理解されている」と言うことに対して神経質なのかもしれない。 そろそろ、諦めて、自分以外の人間に対しては当たり障りのない言葉で接し、主張なんかするべきではないのかもしれない。安西先生は「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」っていうけどさ、いいんじゃねえの?試合終了でも。バスケットボールの試合が終了しても、僕の人生が終了するわけではないからさ。理解してくれるって期待しなければ、体面の良い言葉はいくらでも喋れる。僕だってただ36年も生きてきたわけじゃないからさ。 そうやって言うとたいていの人は、理解出来ない自分を恥じるのか知らないけど、「丁寧に説明して欲しい」って言うんだけどさ、しょうがないじゃん?伝わんないものさ。無理なんだと思うよ。

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「ありがとう」が変わるとき

「ありがとう」っていうと何かしてもらったときに言う感謝のセリフですが、まあね、日常生きてるとなかなか口に出しませんね。接客業の人は業務で習慣として口に出すと思いますが、まあなんというか、そうじゃなくてね。プライベートであんまり口に出さなくないですか。それが美徳とされていることからも解りますけど、大事なことではあるけれど意識しないと口に出さないからこそ美徳とされているんじゃないかと。 そんな「ありがとう」について、僕個人ではいままでに2回、「あ、変わったな」と思った瞬間があります。「ありがとう」という文言はそのままなんですが、その言葉を言うときの心境が変わった瞬間です。別にもったいぶる必要も無いので並べて書いてしまうと、

  • 自分がDJイベントを始めて、お客さんが来てくれるようになったとき
  • 同人即売会のことを知り、実際に一般参加として参加したとき
という2回です。 最初のDJイベントの方はより直接的です。実際に、感謝の気持ちを持って「ありがとう」と頭を下げられるようになったのって、DJイベントのおかげだと思うんですよね。それまでも接客業のバイトはしていましたけど、バイトって所詮は仕事じゃないですか。しなくてはいけないからするんであって、感謝の気持ちなんか無くたって口にはするわけです。コンビニレジからの「ありがとうございましたー」とか。 でもDJイベントの方はそうじゃ無いんですよね。僕らは別に有名なDJってわけじゃない。どこかで絶賛されてるわけでもないし、豪華なゲストが来てるわけでもなければ、有名な箱でやってるわけでもない。入場料は無料じゃない。そういう状況の中でそれでも来てくれているお客さんに対して、ありがたい、と思わないわけが無いじゃないですか。それが友達であっても、そうじゃなくても。もうね、出来れば全員とハグしたいくらいの気持ちですよ。100人とかさすがに無理なんでしませんでしたけど。 「ありがとう」なんて、ただ声に出して言えば良いだけの言葉に過ぎないんですけど、僕にとってはこのときに「ありがとう」という言葉に対する心理的な障壁が1つ取り除かれたような気がします。 2つ目の方はごく最近のことですね。同人即売会での話。 よく「同人即売会にお客はいない」ということを言います。創作物を準備して販売する人、それを購入する人、イベントを運営する人、そういう人全員が参加者であり、イベントを支えるメンバーであるということですね。 販売している人はそれで対価を得ていることもあって、創作物の受け渡しの際に「ありがとうございます」といってくれます。それに対して購入者である僕たちはなんと返すのが正しいのか?黙って受け取る?「いえいえ、どういたしまして」?僕の答えはそうではなくて「ありがとう」でした。 創作は出来ないが支持することは出来る、特に「僕のために」ということではないでしょうけれど、ともかく創作してくれて「ありがとう」。おかげで僕は幸せになることが出来ます。お互いに果たす役割は違えど、持っている気持ちは同じなわけで……そんなあなたの活動にありがとう。きっとそれが正しい返答なんだろうと思い、また実際に口に出してみて一番自分でしっくりきたのでした。 ありがとう。 なかなか口に出して言えないですけどね。 大事なことだと思います。 きっと誰にもそれを口にする、もしくは口にすることが出来るようになる瞬間が、あるんだと思います。

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両親が農家から米を買っている話を聞いて「情報強者」について思ったこと

実家に帰ってました。ただいま。 実家にいる間はiPhoneでTwitterとFacebookをときたま覗く以外ネットには繋がず、とても心穏やかな暮らしをしておりました。自分の食い扶持フィールドのことを考えずに言うと、やあ、みんなネットばっかりやってたらあかんよ。うん。 でで、まあそれはそれとして、お米の話。うちはお米が大好きで、2人暮らしながら結構な量を食べています。そのせいで米の値段が上がると結構きついんですが、実家の両親が農家からまとめて米を買っているとかでときおり送ってくれます。これが美味い。とはいえ米の値段は、京都のスーパーで買うと安くて5kg2,000円、普通に買うと2,280円、米屋で買うと2,500円から3,000円というレンジで決して安いわけではないので、両親に頼るのは心苦しく思っていたんですが、実家に帰ってその辺のことを喋って判明。知り合いの農家に、安全で美味しいお米を安く分けて貰っていたんでした。諸々事情はあるんですけど、10kg2,000円。どうなってんの。しかも、超美味しいの。少なくともスーパーで手に入る古米混じりのお米よりか、ずっと美味しい。 美味しいお米を買うには?っていうと、産直の市場を探すかネットで検索する買ってことになるんですけど大体高いんですよね。道の駅的なところで見ても、5kg3,000円とか言ってんの。無農薬玄米ならまだしも白米でそれは難しい。ネットで検索して買っていた時期もありました。ネットで検索すると、安全評価から食味分析からありとあらゆる情報が載っているのでとても安心出来ます。送料もそれほど高くはないし、多めに注文すれば5kg2,500円くらいで購入可能です。安心出来る美味しいお米がこの値段で買えるんなら、わざわざ同じようなお金出してスーパーで買う必要ないなあ、と思っていたのですけど、それより全然正しい解は、「農家の知り合い作って売ってもらう」。これ最強。しかもうまい。来年はうちの分もまとめて買ってもらおうかと思っています。もちろん両親にお金を払って。 その農家の人というのは実際には遠縁の親戚で、別の畑を安く貸してる縁なので「知り合いを作る」っていうとちと語弊はあるんですけど、僕にとってはもう30年くらい会ってない人(名前もわからん)なので、知らない人。それに販売価格は別に親戚割引きと言うことでもないらしい(別の親戚じゃない農家の人から買ってたときもそのくらい)。うおーそんな社会、俺しらねー。そんな社会との接続口は、ネット上には落ちてねえ。そういう接続口は、実際に足を運んで、話を聞いて、作るもんなんだろうなあと。そういう接続口を作るの、うちの父親も母親も天才的に上手いので、息子の僕も美味しいお米が食べられる、と。 ネットを過信してるつもりはなかったのですけど、「何もない俺でもネット使えば人並みに、いや人以上に上手くやれる」的なことは思っていたかもしれません。少なくとも「ネット使えないと街の電器屋で定価で冷蔵庫買う」くらいのことは。でもなー「情報強者」ってのになる方法は何もネットを使うことだけじゃなくて、当たり前なんだけどさ、昔ながらの人と人との繋がり的なところにも大事なことはたくさんあるのよね、と再確認しました。それをサボるためにネットを使おうとしたらあかんね。 そんで米美味くて幸せだー

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超久しぶりに「ブログランキング」に参加してみたよ

14_01.jpg こことは別に作っている、ニコニコ動画を紹介するブログ「1日1ニコ」のアクセス数を増やしたいなあと思って、内容を検討したり改装したり整備したりしています。アフィリエイトで稼いでるわけでもないしアクセスされなくてもどうと言うことはないのですけど、せっかく書いてるからせめてもう少しは見てもらえたら嬉しいなあという。せめていまの…5倍くらい。元の数字がいかに小さいかわかりますね。そう…ゲームみたいなもんです。なるべく構成や内容をあざとくせずに、注目してもらえるためにどうしたらいいか?的な。

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話が長い

今年も安定の「平」。またですか… 最近自分で自覚的に感じるのだけど、どうも話が長い。 時間を計ったわけではないけど、話をしているときの相手の表情見れば大体わかります。「話は大体わかったしもう良いよ」という表情が出てて、一方で僕の方は「まだ説明しないといけない細かいことがある」みたいな感じになってる…という。まー話が長いのは昔からなんでしょうけどねー…悪化してるような。日本よ、これがおっさんだ。 理由はいくつかあるんでしょうけど一番大きいのは、

  • とにかく自説を披露したい
ということだと思います。 やあ、普段そんな気は全然ないんですけどね。 ふと喋り始めるとその過程で色々思い出して止まらなくなってしまうという。 それ以外に大きな理由として、
  • 誤解されないように丁寧な言い回しにする
というのもありますけど、でもよくよく見て見ると「相手の人はこれも知らないかも知れないから説明しておきたい」みたいな感じで喋っていることが多く、つまりは相手に「これ知ってる?」という確認や「どう思う?」という投げかけをせずに自分だけが喋って説明してるわけで(だから相手が知っているかどうか解らないし実は気にしてもない)、「丁寧に」を言い訳とした「自分が喋りたい」なんだなーと。 んでそれはそれとしてお前どうすんの、という話なのですけど、「話が長い」とうざがられるよりも適当に喋って誤解される方が嫌なので、というか気をつけてないといつも誤解されるので、ある程度間延びするのは仕方ないなーと思いますが、俺の話を聞け的なコミュニケーションは改めた方が良いなとも思ってます。別にねえ。聞きたくないもんねえ、そんなの。 自虐的でない意味でゆったりおっさん化しつつはあるわけなので、改善できるかどうかはわかりませんけども、自覚して努力はしておきたいなあ。

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「了解しました」「了解いたしました」は尊敬語ではないんだって

大門_了解.jpg 「了解いたしました」って便利ですよね。 「了解」の響きが少し硬くてかしこまった感じに思え、多用しています。 ただこれ「上司やお客様に使うのは失礼」なんだそうです。 目上の人には「了解しました」ではなく「承知しました」 :よりていねいなメール応対テクニック | 書き方ができる人コム 「了解しました」は、いけません – あらんだまおばさんの元気日記 そうだったのか…

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「誰が何を言ったか」が大事

いきいきペール なんとなく見掛けたフレーズに絡んでいくシリーズ。 特定の相手がいるわけじゃありませんけども。

ネットは公平な場所であり、実名であろうと匿名であろうとHNであろうと同様に1つのユーザーであり、そういう場所では言葉の本質的な力が強調される。すなわち「誰が言ったかでは無くて何を言ったか」が重要なのであり、発言者の氏素性によってフィルターを掛けるのではなくその発言内容に真摯に向き合うべきである……
馬鹿言えと思います。 もっというと、馬鹿も休み休み言えと。

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スマートフォンで検索をしない

最近特に心がけていること。スマートフォンで検索しない。特に人との会話の最中に。 スマートフォンで検索する必要性が出てくるのは、

  • 出先で話しているときに話題に上った
  • 家でネットに繋いでいないときに話題に上った
みたいなときで、つまりは、
  • これまでは「わからない」で諦めていたのが解るようになった
みたいなシチュエーション。
  • 「この間行ったあのお店なんていう店だっけ」
  • 「この4文字熟語どういう意味だった?」
  • 「ゴーヤチャンプルーってどういう手順で作るの?」
  • 「この有名人て今年何歳になるの?」
  • 「今日の日本シリーズどうだった?」
バーのスツールで2人でしている会話の中でスマートフォンをいじるとこんな感じになるでしょう。
  • 「今日、そういえば日本シリーズだったね」
  • あ、そうだったねー
  • 「巨人と日ハムだったっけ」
  • うん、そうそう。原監督と栗山監督ね。
  • 「あ。栗山ってあの栗山?ヤクルトにいた?今監督やってんだ」
  • うん。今年から日ハムの監督になったみたい。
  • 「そうなんだー。栗山とか懐かしいな…今何歳なんだろう?」
  • 何歳なんだろうね。凄い若そうだけど。
  • 「うーん……」
  • (検索中…2分経過…)
  • 「あ、51歳だって!」
  • 結構いってるねー凄い若く見える
  • 「だねー。痩せてるしね」
  • そうそう、最近足怪我して走れてなくて体重がさー
  • (以下略)

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今年も「Number」の定期購読を更新しました

Sports Graphic Number 少し考えはしたのですけど、1年間を振り返ってみて去年ほどは悩みませんでした。なんでかと言われるとなかなかに困るのですけど、サッカーをテーマに掲げることが多いという偏りはあるにせよ「現在のスポーツ」に繋がる特集が多く組まれた印象があることと、特集に割く頁数が減って1冊を貫く特集の色が薄くなったけれどその代わりコラムや挟まれる読み切りが増え、しかもとても面白く、1冊全体としてむしろ濃くなっているという印象があったためです。まあ熱心なファンの感想なのでそうで無い人には多少間引いて読んでもらいたいと思いますが、今までの「1冊1テーマ」主義から「テーマを掲げながら幅広く網羅する冊子」へ上手く変換したなあというところでしょうか。旧来の解りやすい、そして印象に残る1冊空変わってしまったのは少し寂しいですが(生島さんのコラム「Number懐古堂」で取り上げられる冊子の印象が強烈なだけに余計に)、個人的にはアリだと思います。読みものとして面白い。お腹もいっぱい。風呂で読んでると余裕でお湯が冷めます。風邪引き注意。 まあそんなこんなでね、また1年我が家にNumberが隔週で届けられます。 2008年10月に注文してから定期購読5年目。 ものが増える一方なのが悩みの種ですが、やっぱり便利だし嬉しい。 今年も1年よろしくお願い致します。

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