選手は大人だなぁ(Sports Graphic Number 773号「名将の言葉学。」)
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友人がその知人のこんな言葉をリツイートしてた。 (自分は知らない人なのでソースは伏せてます。返信とかではないので気にしない方向で)
時々、難解な文章書く人がいる。難しい感じや単語を使って書いてある。それを子供向けにしてもらうと全く書けず実は本人がわかっていない事がわかったりする。人に教えるとはそういう事。わかったふりが浮き出てくるいやー真理だと思います。ただまぁ人に教えるって難しいよね… 特にこれをリツイートした友人は毎日悩んで、僕なんかが及ばないくらい悩み考えてるんだろうなぁと思うんですけど、「教えるのが難しい」のと「難解な文章を書く」のとは実は全く関係がないのではないかなぁと思ったり。文章上の装飾として、「平易な表現では書けない」の強調として「普段難解な文章を書く」が出てきているのだろうなと思うのだけど、普段平易な文章を書いている人であっても、誰か向けの文章ってのはなかなか書けないもんだと思うよ。それが不特定多数向けならより一層。
一般的な「高校教師」の話というよりは、僕の恩師である特定の教師たちの話なのだけども。 高校のとき、受験というゲームのテクニックを上手く教えて生徒の点を伸ばすことで胸を張っていた教師がいたのだけど、社会に出て働いてから振り返ってみると、社会人としても教師としてもそのことは別に大して凄いことじゃないわけで(一部の極端な進学校を除いて、教師にそこまで望んでない)、対生徒としては「生徒にものを教え導いていくためには堂々としていなければならない」のだったとしても、あれは本当に職業人として自信を持っていた上での態度だったのかなぁと少し疑問に感じた。 僕はその英語教師をあまり好きではなかったのでちょっと意地悪なことを書くけど、もし仮に言動通りに「俺SUGEEEE」とか思ってあの態度でいたんだとしたらなんつーかもの凄い痛い。進学校の高校生がある時期以降勉強にひたすら集中せざるを得ないことを考えると、「もっと他に教えることあるだろ」という言葉は非現実的だしそんなことは絶対に言わないけども、だからといって塾の講義や自宅の勉強でも出来るような件について高校の教師が授業していて、それが俺の仕事だと言っちゃうのは何かなー当時も違和感持ってたけど、自分で自分の仕事を持った今だと余計に違和感感じる。もし本当にそれだけだったんだとしたら、申し訳ないけど尊敬できねーよっていう。まぁ、担任じゃなかったから授業のことしか知らんけどね。 てか…考えてて思ったけど、教師って大変だな(苦笑) 自分とえらく年の離れた子ども相手に、根拠があろうが無かろうがある程度自信を持って接しなくてはいけなくて(教育学部附属で教習生をたくさん見てきたからよく解ってる)、意識的にせよ無意識的にせよ年下の子どもにたいして余裕をもって接する(ある程度下に見る)けどそれに疑問持ったら負けで、「受験なんかどうでも良いじゃないか」なんて口が裂けても言えなくて、でもって毎年メンツが入れ替わる。 先生方、いつもお疲れさまです。 ありがとうございます。
僕は、言わば私塾のような学校に税金で援助するのは筋が通らないと思っていて、そういう意味で朝鮮学校の無償化には反対なのだけど(もし認めるなら「フリースクール」なども認めるのが筋かと)、だからといってこういうプロセスで手続きが止まると言われると…なんというかどうリアクションして良いかわからない。 なんでしょ。 反対であるとはいえ、実質的に「高等学校」として機能していて、多くの子どもがそこに進学していることに代わりはないのだから、北朝鮮がどうとか言うんじゃなくそういう教育的な視点で無償化を認めて行きましょうよ、みたいな理解で「朝鮮学校の無償化」を飲んでたんですね。僕は。敵国である北朝鮮本土ではなくて実際に日本に住んでいる人たちのことを見ましょうよと言う。 でも有事が起こったらば、結局見てるのは敵国だってのが露呈しちゃった。やっぱり日本に住んでいる人たちの教育のためじゃなく、北朝鮮に便宜を図るための政策なのね?と。いや、無償化には反対なのでプロセス止まるのには賛成したいんだけど、こんなんでいいのかな。何か素直に喜べない。まぁ喜ぶ必要もないんだけど、日本に住んでいる人たちの生活とか言う話はどこへ… なんだかなぁ。なんかしっくりこない。仙谷官房長官は24日午前の記者会見で、高校授業料の実質無償化の対象に朝鮮学校を含める方針について、「手続きをいったん停止する方向だ」と表明した。
この件に関して。
「写真集出版で退学処分は無効」女性タレントの訴え棄却 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)写真集の出版を理由とした退学処分は無効だとして、女性タレント(19)が桐朋女子高校(東京都調布市)を運営する桐朋学園を相手取り、処分の無効確認を求めた訴訟の判決が27日、東京地裁八王子支部であった。
田口さんのこちらのエントリからインスパイア。
「プログラミングは小学校の必修科目にすべき!」と個人的に思っていますが、プログラミングからは本当に多くのことを学んでいます。 先日、プログラミングって人生だよね的な話題がもりあがったので、自分がプログラミングをやっていて良かったなぁ、と思えることをまとめてみます。
『学歴』という言葉がある、まぁ、あんまり好意的には使われないけど。 僕の学歴は尻切れトンボで誇れたもんではないが、 例えば大学受験に対して費やしたエネルギーというのは誇ってもいいかな、と。 よくね、学校での勉強がなんの役に立つんだ、って 青臭いセリフの代名詞だけど、そりゃあ役に立たないよ。立つわけねぇ。 知識としては、将来の可能性を見せるために広く浅くというのが学校教育における知識なわけだし 自分に関係ない部分がたくさんあるのはいたしかたあるまい。 しかし、だ。なんだろうな、勉強ってのはすること自体が既に目的であるわけで。 そこで、効率的な頭の使い方や、目標の立て方を学ぶ、 勉強ってのはある程度才能なんだよな、 論理的思考の才能、努力の才能、人の支援を得られる才能、 だから、それなりの場所にはそれなりの頭を持った人間が揃いやすい、 よく、いくら学歴が高くったって頭が悪いヤツはだめだ…何て事を言いますね。 そりゃそうですよ、頭の良い悪いは、知識のあるなしじゃあないからね。 でも、それは比率の問題、学歴が無くても頭が切れる人を僕はたくさん知ってるし、 学歴が高いけど頭の切れない人、切れるのに使い方間違ってる人、 そんな人も僕はたくさん知ってる、 でも、会話してみると分かるけど、一流大学(たとえば東大・京大)の 頭が切れるやつの比率は、世間一般より高い、それは間違いない。 そういう空気に混ざって自分の頭の悪さを自覚できないヤツも中にはいるけれども まぁ、平均でみれば、いいと思いますよ。 ブーイングを承知で言えば、『勉強ばっかりしてきたヤツは頭悪い』なんて言う言葉は、 頭悪い人のやっかみでしかないわけで。 学歴に固執してるという点では、ひけらかす輩とさして差はないわけで。 んじゃ、なんで評価が実際と異なるかって言えば、 ひとつは前述したやっかみ、もう一つは期待と印象の差、かな。 学歴って言うのは要するにアレだ、指標、ブランド、ここ産だから多分美味いに違いない、 そんなことのために使われる、 でも、たとえば選挙とか、芸能界とか、そういうことがすべての世界もある、 普通のビジネスだって、実際にビジネスとして関わる前、 つまりお見合いで言えば写真が送られてきてお母さんに見せられてる段階で、 完全アウトな人はそこでお断り、良くても、マイナス思考でお見合いに臨む、みたいな感じはある、 もちろん逆もあってノリノリで臨むこともあるでしょうな。 いずれにせよ、学歴ってのはそんなもんで、先入観の一部として使われるわけで、 マイナスを裏切られれば、大きなプラスに、 プラスを裏切られれば、大きなマイナスに。 特に日本がそうなのか知らないけど、世間一般的に、そうして、 良いものは過小評価を、悪いものは過大評価を与えられがちかな、なんて。 学歴主義はまぁ、本質をみていないという点で全く賛同できないけれども、 逆に言えば、勉強ができると言うことを才能としてとらえて、 そこから、本質的な部分を抜き出して評価するというようになれないのは何でですかね? まぁいいけどさ。