Train.
Train Train 走ってゆく Train Train どこまでも…… 今日は、 そんな、1日でした
Train Train 走ってゆく Train Train どこまでも…… 今日は、 そんな、1日でした
僕は電話は苦手だが、 コミュニケートは大事にしたいと思っている。 電話が苦手なのは、相手の状況がわからないから 電話を掛けて迷惑だったら悪いな、ということと、 電話では伝わらないことが多くて、 また『無言』という時間は何も話さない以外の状況になることが あまりなくて、すぐに喋らなくちゃならなくて ま、要するに苦手なのだ、 だけど、何かをするときには、 きちんとコミュニケートしなくてはいけない。 こう何年も馬術部にいたことをいうのはどうかと思うが、 正直に言って、馬術部という環境は、過酷だ。 好きだからできるしやってるけど、それと過酷さとは関係がない。 その中で、皆が、なるべく平等に過酷を背負うようにしている。 もちろん、平等に、なんていくわけはないから、 みんな不平不満もあるし、組織としての欠点もある、 通常なら我慢できる『重さ』であっても、 既に背負っている重さから考えれば、 バランスを崩すのには十分なのだ。 つまり、『重さ』になる前に、解消させなくちゃならない。 個人的なことならば、監督や、主将が、または先輩が、後輩が、 公に関わることならば、上回生で作る委員会が、部員全員が、 監督コーチを含めた部全体が、 そうして、不平や疑問が『重さ』に変わり、 バランスの変化が『不信』へと変化してしまうことを防ぐ。 いや、正確には、なるべく、小さくなるように、努力する。 僕はその中に、4年間いたのだ。 コミュニケートすることの大事さと、限界について、 これでも ── 電話は嫌いだが ── よくわかってるつもりだ。 コミュニケートしなくてはいけない。 中途半端なモノなら、ない方がいい。 いい加減に、やらないでほしい。 思想と性格が、明らかに違う。 もしかしたら、気が合わないことも知ってる。 だけど、そんなことは問題じゃない。 もしかしたら、俺だけが独りよがりに喋ってしまうのかもしれない。 俺がやたらとマトメに入りたがりすぎるのかもしれない。 『コミュニケート』した気になってるのは、俺だけかも。 だけど、そういうことは俺が自分で考えても、 『そうかも』以上にはならない。 他人のことなんて、超能力者だって、本当はわからないのだから。 すこし、俺、真面目すぎるかな? 確かに、遊びのことさ、 だけど、遊びだからこそ、本気でやりたいよな、 話題だって、些末な話だと俺も思うよ、 本当はもっと、テーマとか、方向性とか、話さなくてはダメなんだ、 誰か独りが方向性を持ってるって言ってもダメなんだ、 僕らはチームだから、 1人の方向性はチームの方向せいじゃ、まだ、ない そういうこともわかっててほしいよ、 確かに、些末な話題だけど、 そのひとつひとつに、凄くデリケートな要素が混じってる、と、 俺の中の、神経質な俺、が、言う。 俺は曲げるつもりはない。 納得さえすれば、意見はいくらでも譲歩するけど、 大事なこと、思いや考え方は、 そう簡単には曲げない。
『お金ってのは黙っててもなくなるもんさ。』 というのが以前までの僕の『お金』に対する印象で それはきっと多くの人に共通してるんじゃないかと思うんだけど、 最近ちょっとそれが一時的に?変わってる。 2月から3月にかけて、メトロに行くのを止めよう、 飲みに行くのも止めよう、自宅謹慎だー なんてことを考えて、要するに財政的には 全然支出がない生活だったのだけど、 それ以来、どうも、なかなかお金が減らない。気がする。 厳密に言うと、きちんとそれなりのペースでお金は減っていて 月末はやっぱり苦しい…のだけど、 しかしやっぱり、なーーんか支出が無い気がする。 生活費は郵便貯金に入れていて、そんなに多くないんだけど、 (その他のお金は貯金気味に三井住友に入れてる) その額が減っていくのを眺めていても、 『うーん、月末までなんとかなるんじゃないか??』 なんて考えているのだね。 で、これはなんなのだろう?と考えるに、ひとつは 本を読まなくなって、つまり買わなくなった、 もうひとつは、あんまり食費にお金をかけなくなった、 つまり食べなくなった、 って、問題だ。 脳にも体にも栄養が不足しているとは! どうりで最近一段とバカになったような気がするわけだ(昔からか) むむむ、 もうちょっと、有効にお金は使わなくちゃならないなー やっぱり、食費とか生活雑貨とかで目減りしていく前に 使っちゃわないと! つーか働けよ。 むーーー、労働意欲がない男。情けない。はぁ。
昨日(3/31)はお花見でしたーーー。 午後2?3時あたり夕立があって、無理かなーーとも思ったけど、 いやいやどうして。 夕方からはパキッと晴れて、花も雨を吸って、いい色、 いいお花見でした。 (3月の鴨川の夜はまだまだ寒い…というのを除けば完璧。) 寒さと、 幹事(つまり俺)が少し酔ってしんどかったのとで、 お花見は早く終わっちゃいましたが、 (9時くらいに順次解散) それでも、楽しかったーー また、折りに触れ、なんか企画するので、 今回参加できなかった人も、参加してね。 そんで、楽しい酒、飲みましょう。 楽しいお酒でした☆(-^)d
F1を見始めてからもう何年がたつかわからないけど 今年のF1は面白そうだ。 (セナプロ対決@鈴鹿を憶えてるから…もう15年くらいかな) 第1戦オーストラリア、第2戦マレーシアに関しては、 一部マスコミ(というかフジテレビ)の『佐藤』『トヨタ』 がうっとおしくて、苦笑いだったけど、 第3戦ブラジルあたりになってくると、そういうのも少なくなり、 中継を見ていても純粋に楽しめる。 今年はなんと言っても、フェラーリvsウィリアムズBMW。 昨年後半からのウィリアムズの2台、 ラルフ・シューマッハと、ファン・パブロ・モントーヤの2人の 速さは、プロスト、マンセルが在籍し、 ヴィルヌーブがチャンピオンになったときくらい、 突出したものだった。 そして今年。 モントーヤの傍若無人さもあるけど、 M・シューマッハには昨年ほどの圧倒的な強さ、は感じられない、 もちろん、第3戦ブラジルのように、 『ここぞ』というところでは、圧倒的に勝負強いが、 マシンも含めたベースの攻撃力からいうと、ほぼ互角、 場合によってはラルフの方が上を行ってるのではないか? それだけでも面白いのに、今年はさらに、 トヨタ、佐藤琢磨の話題があり、 見ていても、飽きない。 ここ数年は見ながらPCを見て、あ、終わっちゃった、 やっぱりシューマッハか、みたいな観戦だったけど、 ことしは、ちょっと気合い入れて見なくてはなるまい。 とにもかくにも、 面白そうだo(^ー^)o
プロ野球開幕! なにはともあれ、これがないとね。 グラウンド外、のプロ野球に関して言うと、 完全に経営者視点、観客無視、肝の小さい勝負・采配、 鳴り物に消されるスタジアムの雰囲気、 労組を無視し続けるオーナー側と意固地になる選手会、 有名新聞社の傍若無人、非常識オーナー。(横審も務めてる) 言いたいことはたくさんあるけど、 なにはともあれ、野球が好き。 小学生の頃、静岡・草薙球場(知る人ぞ知る)で毎春行われる、 ジャイアンツ vs ホエールズ を毎年見に行っていた。 プロは凄かった。 内野席の、歓声、野次、雰囲気は気持ちよかった、 大リーグは素晴らしい。それはブラウン管を通じても思う。 アメリカ人が羨ましくて、羨ましくて、しかたない。 だけど、あれは、アメリカの、スポーツだ。 僕らには、正岡子規が名付けたところの、 『野球』が、ある。 今年も、野球が始まった! どんなシーズンになるのかなぁ…
『オパール道場』に書いてあった論評を思い出して、 アイタタタタタ…。 そうであった、わかりやすいなんて、当たり前なんだった。 アイタタタタタ…。 要はデザインとして吐き出す出力よりも、 対象を理解する入力の方に努力を払うべきなのであった。 アイタタタタタ…。 いや違うか、 入力したモノを損なわないように出力できる手段を選べ、 ということか、 反省してもわかってねーー アイタタタタタ…。 『コンセプト』などかっこつけて書いちゃって恥ずかしい… アイタタタタタ…。 ちくしょーーー。 はい。 やるだけです。
感受性ってなんなんだろう? 感受性が高い、ってどんなひとのことを指すんだろう? 取り敢えず思いつくままに、 『細かなことに気が付くヒト』 ということだと、してみよう。 細かなことに気が付くヒト、 『機微』ということに心を配ることができるヒト、かな? 待て待て、 独りよがりではなくて、『日本語』の定義を見てみよう。 【感受性】 外界から受ける刺激や印象によって 心に感動をよびさますことのできる性質や能力。 なるほど。そうか….. まぁ、予想通りでしょうが、結局は僕個人はどうなのだろう? という疑問に立ち返っていくのだけど、 僕個人が思うに、 僕はみんなが言うほど、 デリケートだったり神経質だったりしないし、 みんなが思うほど、鈍感だったり、大ざっぱだったりしない、 敢えて言うと…暇人、…..かな? 感受性どうこうより、みんなが頑張ってる時間、暇している、 ただそれだけなのかも。 まぁ、そんな、自省的な分析は置いておいて、 なるべく、感受性には富んでいたいと思う。 世間に落ちているさまざまなことに、アンテナをのばして、 いろんなことを感じていたい。 結局、いまいち良くわかんないけどね。 感受性。
散歩していて、なぜ桜があんまり好きになれないのか、 なんとなくわかった気がした。 咲き方が、下品なのだ。 もちろん、『僕に言わせれば、』なのだけど、 いくら1本1本が綺麗だとはいえ、 あそこまで同じ色を連ねて植える必要がどこにあるのだろう? どうにも理解できない。 御蔭通りから、高野川沿いに下っていって、 その間、東側はずっと桜桜桜…、なのだけど、 出町柳のところに、1本だけ種類の違う、色の薄い桜がある。 桜は好きじゃないけど、 その桜はすごく、気に入った。すごく、綺麗だった。 やっぱり、どうも好きになれない。 群生していても、河原の菜の花に対しては、 『美しい』という印象を持つ、だから花が嫌いなのでもない、 ただやっぱり、 やたらめったらに並べて植えられている桜には、品がない。 他に植える木があるか、 と考えると、まったく思いつかないのだけど。
科学的な話は置いておいて、 『木』にとって正常な状態というのは、 根を張り、幹が伸び、枝が生え、葉が繁る、 そういう状態じゃないだろうか? 光合成やら、学校で習った木の『生きる術』を実践するには、 そうでないと。 冬、葉が落ちるのは、何故か、なんとなくわかる気がする。 寒さの中、来るべき春に向けて、こっそり準備する、 なんてのも、ありそうだし、 無駄なエネルギーを使わずにじっと耐えるってのも、理解できる。 だが花は…? 花って何なのだ。 学問的レベルでは、種子を作るための受粉どうこう… という話なんだけど、そういうことじゃなくて、 人間としては目を楽しませてくれるもので、重宝してるけど、 木にとってはなんだか、余計なもののような気がして、 そんなことして遊んでないで、さっさと葉を付けた方が、 1本の木としては大事、な気がしない? どうせ、身の回りに子孫が増えるわけでもなし。 自然てのは、どうもよくわからない。