『言葉で説明できる人生なんて小さいですもんね』

年下の友達としゃべっているときに、彼がそんなことを口にした。
昔の僕だったら、全くその通り、と頷いてたかもしれない、
でもその言葉を聞いて、今僕が感じることはそれほど単純じゃなかった。

この言葉がどんな文脈で出てきたかって言うと、
2人で人生について話していて、
僕が上手く言葉で説明できなくて悩んでいるときに彼が言ったんだが、
そこで僕はこう返した、

『それはそうだけど、相手に伝えるには言葉じゃないといけないし、
むしろ、言葉で説明できることと、その対象が大きいか小さいかは関係ない、
大事なのは、その言葉を受け取って、対象を想像して共有することなんだ、』

そんなに大まじめに切り返すようなことでもなかったけど、
シリアスに話し込んでたわけでもないし、
まぁでも酔ってたんで、何となく口に出てきた。


確かに、言葉で説明するってことが、対象の価値を貶める場合もある。
下手な料理レポーターの、『美味しいですねぇ?』が良い例だけど、
何が美味しいのか、っつーかどうなのか、
っていう部分が全くこっちに伝わってこないのに、
美味いか不味いか、という部分でどうしても嘘臭く見えてしまう。

また、言葉でまとめるために、見栄えの良い部分だけを見繕って説明するときもある、
意図とかバックグラウンドとか、いろいろ盛り込まなくちゃいけないことはあっても、
結局言葉で説明するときには、上っ面だけになったりする。
だから、『大事なことは言葉では説明できない』、ってのも事実ではあると思う。
あー、むしろ、『言葉で説明できることが良いとは限らない』かな。


でも、相手に伝えなければいけないことがあるとき、
相手に伝えたい何かがあるとき、
それらを確実に伝えるには、僕らは言葉に頼るしかない。
問題の大きい小さいなんてことはそこでは関係なくて、
言葉の意味そのものだけでは、すべては語り尽くせないとしても
それを受け取った人がプラスαのフィーリングを感じて、言葉を補い、
物事を感覚として共有できるのがベスト、だと僕は思う。


要するに、言葉で説明できないなんてことは当たり前のことで、
むしろそれを何とかするために僕らは会話をするわけで。
『言えば分かる』なんて思いこむのも良くないけど、
出来やしないって諦めるのもなんか違うかな、と。
伝わらないことを何とか伝えようとして、
生きていくもんなのだよ、人間は。