復食終了。 – “断食2007春”完全終了

断食の際、最も注意しなくてはいけないのは、いわゆる『復食』。 何日間も食べなかった内臓を、徐々に慣らしていく作業。 そこで急激な負担を掛けると、最悪、命にかかわる(らしい)ので、 毎回その時期は緊張するわけですが、と同時に、 人生でお粥が美味しく感じられる瞬間TOP3に確実に入るのも、この時期。

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自分は弱いなぁ、と思った。

22日に、Weller’sで、8周年のお祝いパーティがありまして。 そこにレギュラーイベントの1人としてDJで参加してきたんですけどね、 もの凄い肩身が狭くて、途中で、嫌になってしまって。 相方には迷惑掛けるし。 友達には心配させるし。 ああ、弱いなぁ俺。

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『落ちた』時の対処法。

落ちたときの対処法…と一口に言っても、 状況によって大きく異なるわけだけど。 今回、なーんか自分で納得できない部分があって それをうじうじと考えてるうちに、テンション下がって、 まぁ合間合間に仕事のこととか、腹の立つことも起きるんだが、 そういうことも含めて、下向きに。 で、思ったことは、結局ね、コアの部分を、 自分でどうしても認めたくなかったってことで。 まぁなんつうかな…自分でそれを認めることはすなわち、 俺ってちっちゃい人間だなーと、実感することでもあるわけで。 そんな理由もあって、 手で隠して見えないようにしてたんだけど、 その要素を避けて結論を出そうとすると、 どーしても納得のいく結論にならない。 結論が悲惨なものでも、 納得できればそれはそれで受け入れられるんだが、 それが出てこないうちはねぇ。 で、意を決して、ちっちゃい自分を認めてみた。 良いから見せてみろ、と。 無理矢理手を引っぺがす作業ですよ、 子供相手によくやるようなことです、 考えごとしながら笑っちゃいましたが。 それを認めた上でもっかい見てみると、 あー状況がすげーわかりやすい。 そっかそっか。 それで何か解決したかというと別に解決してないんだけど、 まぁ、気持ちは少し晴れましたな。 そうか、そうか。 それをベースに行動していけばいいんだな、と。 今日は休日で、部屋でスモサを聴きながらこれを書いてるんだけど、 (『Sittin’ on the Fence….』) そうかそうか、SWITCH-OVERで、これを聴いてるときに、 こういう時間を必要としてたのかもなぁ、 なんてぼんやり思ったり。 さーて、大阪に向かうぞ。

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浮雲に翳る街のように

2006年を迎えて以来、顔を合わせる友人の多くが、 僕の顔を見てまず、元気?凹んでない?というような意味のことを尋ねる。 確かに、恋愛のこと、人間関係のこと、イベントのこと、 心配されるような要素はいくらでもある。 終いには、胃まで壊しちゃってるんだから、 僕でさえ、この人大丈夫かな、と思う。 皆さん、ご心配ありがとう。 実際のところどうか?と言えば、 胃が壊れるほどストレスが溜まっているのは事実だけど、 本人はさほど気にしてはない。 むしろ、秋頃から今までに起きた、様々な出来事に対して、 ネガティブな感情は抱いていない。 恐らく…このサイト、そして僕自身を長く知る人であればあるほど、 心配してくれてるんじゃないだろうか。 でもね、繰り返すけどさ、 自分でもはっきりと分かるくらい、何かが変わったんだよ。 先日、自分の書いた文章を読み返していて、 一昨年の夏に書いた文章にぶちあたり、そうだ、これがきっかけだったんだ、と思った。 その文章は、『darkness』『brightness』という、 二つの文章から成るもので、 僕にとっては、自分の心境の変化を、きちんとまとめている文章になっている。 この二つの後書きに当たる、『d x b』という文章の中で僕は、

この感覚は、いずれ、大きな意味を持ってくると思う。 確信というより、まだ予感でしかないが、 現在、そう思っているのだ、と言うことを、未来の自分に残しておく。
と書いているが、その想いは日を重ねる毎に強くなる。 感じるもの、というか、想うことが、それ以前とは変わってしまっているからだ。 決して強がりや幻想ではなく… 2004年4月から、8月に掛けて、ゼロから再構築したものが今に繋がっている。 周りから見れば、ほんのわずかなことで、 話をしてる分には気付かないようなことかもしれないけれども、 僕にとっては、全く違うこと。 好みとか、性格とか、趣味とか、そういうことではなくて、 そういった、本質的な部分の上に乗っている、装飾的な人格的性質ではなくて、 もっと本質的な部分に近い、いわば反射レベルのような部分において、 僕は変わってしまった。 いや、悪いことではないよ。 でも、どんな変化も、すべからく良いということはない。 まだ分からないけれども、ひょっとすると、情緒的な部分を失ったかもしれない。 不安定ゆえの、思い切りの良さとか、思考の幅とか、 自分の感覚を強硬に押し通すこととか。 失ったかもしれないことはたくさんある。 だからね、最近つとに思うのは、 みんなが思ってるほど凹んじゃいない、ってことさ。 『大丈夫?』『凹んだ?』 という言葉を聞くたびに、否定はせずに苦笑いをする。 その意味は、んーそうじゃないんだよな、ここ、凹むとこじゃないよ、 そうした感覚。 年明け早々以来、DJが全く上手くいかなくて、それに関しては本当に凹んでるけど、 まぁでもそれもね、考えてたって仕方がないことだからさ。 準備をして、本番では出来ることをやるだけだから。 ダメだったら反省。良くても、反省。それだけだね。 案外、最近仲良くなった人の方が、 今の僕を正確に捉えてるような気がする。 やっぱりどうしてもさ、僕らが人を判断するとき、 目の前にある状況に、今までのことを加味して判断を下すわけなので。 全く先入観ゼロってわけにはいかない、 だから、深く知った人ほど、 ある時期以降の僕の考えていることは、理解できない… というか受け入れられないのではないかな、と思う。 むしろ、 『秋頃から今までに起きた、様々な出来事』そのものが、 良いことも悪いことも、 こうした変化をベースに成り立っていると思う。 必ずどこかに、そういう要素があって、 昔の状態と比べて、不思議だなぁ、と感じている。 だから、僕は納得している。 今は、陽(ひ)も陰(かげ)も、そう言うものとしてとらえている。 街を照らす陽の光は、いずれ遮られるし、 遮られたからといって、漆黒の闇に落ちるわけでもない。 ただ街は翳り、そして照らされるだけだ。 きっと、取り残された人たちは、よく飲み込めないままで、 何が変わっているのかさえ、見えないだろうと思う… そればっかりは、説明できない。 見て、話して、触れてもらわないときっとわからない。 この文章の言葉面を眺めても、 きっと、なにひとつ分からない。 いやもしかしたら、わからないことが、わからないかもしれない。 モノをゼロから見ること、 それは、感じることを、極限までシンプルにすることだ。 長い苦悩の時期を終えて、 僕はもう一度それを取り戻そうとしているのだろう。

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マイナス思考、

ではないんだよね。 こうさ、疲れてるとさーなんにも考えたくなるわけですよ。 考えても、行動したくなくなって、ものっすごい受け身になる。 その全てが嫌ってことじゃ全くないんだけれども、 あーできれば、時間だけが過ぎてってくれると嬉しいんだがなー とか考えてるわけです。 んが、まぁ時間てのは大体において、 全ての人にほぼ公平に行き渡ってるワケなので、 自分だけ時間を泳いでいて周りだけ止まるってことはないし、 必然的に、自分が何もしなくても状況は変わるわけですよ。 朝になれば、確実に昨日と違う今日が始まるし、 いつの間にか増えていくものや、 いつの間にか目減りしてしまうものもたくさんある。 そういったことが起きているとき、 指の間から砂が落ちていったり、 自分が砂に埋まりそうになっているときに、 ふと、行動を止めてしまって、 砂ではなくて指だけを見つめていたりする。 勘の良い読者は、大方言わんとしてるところは掴めるだろうし、 あまり、言葉の使い方に慣れていない読者は、 置き去りにされて、 もう読むのを止めてしまっているだろうけれど、 流れていくものを、茫然と見送っている、 そんな瞬間が、日常の合間にある。 生き急ぐのであれば、 それはすなわち喪失であって、回避すべきことなのだろう、 以前も、同じようなことで、 理解しあえないことがあった、 でも、全てを得ることが出来ないように、 全てを失うこともまた、 本質的な部分では不可能なのだと思う。 全ては変質であって、喪失ではない、と思う。 そんなことを思いながら、 なんとなく、満月を見上げて、帰途につく。

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痛くないと思えば…

先日、Weller’sのサンポンさん(マスター)と喋ってたら、 『僕は、注射本当にダメなんで、病院いかないんですよ、いやホントにダメ』 と言ってて、マスター、風邪ひどくなるから行きなよーとか言われてたんだけど、 確かに、イタイよね。注射。 例えば歯医者の麻酔とかさ、 歯を削るのに比べれば注射なんて痛くもないんだよ、 その痛みを我慢すれば、後が楽になるのに、 それでも歓迎する気持ちにはなれないよなぁ… サンポンさんほどじゃないけど、好きではないな。 そんなことを考えてたら、こんな記事が載ってた。 読売新聞より全文引用。

注射「痛くない」と思えば痛み軽く…日米共同研究
注射される時に「痛くない」と強く思うと、痛みが軽くなる――。前もって痛みが小さいと思い込むと実際の痛みも和らげられることを、西宮協立脳神経外科病院(兵庫県西宮市)の小山哲男医師と米ウエークフォレスト大のロバート・コグヒル助教授らが脳活動の分析で確認した。6日、米科学アカデミー紀要電子版に発表した。 小山医師らは、被験者10人を対象に、信号音の間隔が15秒のときは48度、30秒では50度など、信号音を2回聞かせた直後にふくらはぎに熱の刺激を与える実験を繰り返し、間隔が長いほど痛みが大きいと思い込ませた。 この後、15秒間隔の時の温度を50度に変えて実験。痛みの程度を評価してもらったところ、30秒間隔で50度の刺激を与えた時と比べ、感じる痛みは小さくなった。 被験者の脳内の様子を特殊な装置で調べると、痛みが小さいと思い込むほど脳の快感や不快感をつかさどる部位の活動が低下していた。痛みを加えた後は、この部位の働きが小さいほど、体から痛みが伝わる部位の反応も鈍くなった。結果として「思いこみ」が痛みを感じる部位の反応を低下させていることがわかった。
にわかには信じがたいけれども、 経験則ではなくて、科学アカデミーに掲載されるほどしっかりした『実験結果』なわけで。 すごいなー。 精神て、肉体に影響あるのね。やっぱり。 まぁ、だからと言って、 注射、いつでも来いよ、 なーんて気分にゃなんねーんだけどね(苦笑)

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本格再開まではもう少しかかりそうですなぁ…

えーとですね、 すぐにでも書きたいことがたくさんあるんだけど、 あまりにもネタがたくさんありすぎてどれから書いて良いのかわからない。 しかも、ネタが不足気味の時には嬉々として取り上げるような話でも、 こう散乱状態になると、なんだか贅沢になってきて、 『うーん、これはまぁいいか、たいして大きくもないし』 何てことを言って、切ってしまったりする。 ああ、もったいない。 そういうわけで、ただいま話を整理しておりますので、 MUTTERの本格再開までは、今しばらくお待ちくださいませ。 ていうか、もうホント、 いろいろ考えないで、書こうと思った端からメモっていった方がいいな、これは。 公開するかどうかは後で決めればいいから。

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精神論的な物は当然…

先日、体育会系について、みたいなことを書いたのだけれども、 自分的にはいまいち不満の残る文章だった。 ただ、『体育会系的』と呼ぶな、といってるだけな気がする。 本当はそうではなかったのだけど、 感じていることを上手く言葉に出来なかった。 もどかしい。 そんなことを思っていたら、 いま、意外な場所で、意外なほど的確な言葉を見つけたので、 それを転載しておきます。

今回行った、ハメコ。氏へのインタビューの席で印象的だったのが、筆者の「格闘ゲームで強くなるためには何が必要だと考えますか?」という問いに対しての回答。 氏は「環境が一番大事だと思います。それは、一緒にプレイする人たち、プレイする時間、それからお金も含めて」と答えた。そして「あきらめないで練習しよう、とかそういった精神論的なものは、当然持っているべきものであって、その上で環境を作り出すことですね。センスだけじゃ勝つのは難しいでしょう」と続く。
これはどこからの引用かというと… ITMediaの記事、『ITmedia Games:あの「HORI」がオリジナルスティックを製作―― 加熱するEVO2005 チャレンジ』から。 記事内、鉄拳のトッププレイヤーの1人、ハメコ。氏のインタビューがあるのだけど、 その中でのやりとり。 注目したいのは…精神論なんて、あって当然、という考え方。 勝ちたい、という気持ちの部分があるのは当たり前のことで、 その上でなにが出来るか、準備をどうするかという部分なわけだよね。 全く違う分野だけど、やはりそうだよなぁ、と思う。 アトランタだったっけ? オリンピックの選手が『楽しむこと』をやたらと全面に出して主張していて それに強く違和感を持ったのだけど、 結局それって…無い物ねだりというか、アレルギー反応というか。 MLBなんかでもそうだけど、必死に、がむしゃらにやっていることを楽しんでいるんだよね。 自分がすでに楽しめていないことを分かって、 むしろ緊張感を犠牲にしてまで、緩めようと思ったというか… 精神論なんてのは…成功するためには当然のことで、良い悪いじゃない。 『なんだって、やる気があれば出来る!』 という焚き付け方は確かに間違っているかもしれないけれども、 (やる気があったって、出来ないときは出来ない) 安直な精神論忌避の流れで行くと、 『やる気』そのものから否定するでしょう? 気持ちなんかひとっつもプラスにならねぇ、みたいな。 いや、違うんだよ、 何が違うかっていうと、見ている物のレベルが。 ひくーいところで満足したいんなら、それでも良いけれども。 もちろん、アトランタに関して言えば、 あのときのヒステリックな行動の裏に、 メンタルな部分に関する取り組みがあまりに遅れている、 日本のスポーツはメンタルな部分はひたすら個人の特性に任せるだけだったからね、 そのことがスポーツ全体で認識されたという意味で、 十分に意味があったんじゃないだろうか。 競技者は、どんなときに楽しめばいいのか、ということを、 選手も把握したと思うし。 そのことが、アテネでの超好成績に繋がっているのかもしれないし。 しらんけど。 まぁ、とにかく、そういうことです。 (やっぱりまとまってねぇ)

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体育会系。

『体育会系』 まぁ、一般的には、 脳が筋肉で出来てるとか、 精神論で語りまくるとか、 無理をやる気で通すとか、 そういうことが言われてるわけですけどねぇ。 古いね。 感性も古いし、語彙も貧弱だなぁ、と、 まぁ、主に『文化系』の人々の糾弾系文章を読む度に思ってるわけです。 単純にしらんだけだよなぁ、この人ら、と。 その単語以外に、状況を説明する言葉を持たない。 まぁ、指導者も選手もピンキリなワケなんで、 体育会に所属する全メンバーが同じ事を考えてるわけでもなし、 そりゃ、いろんなやつがいますよ。 そもそも、古い価値観の体育会系だけで勝ち残れるほど、 実際の競技の場面は甘くはないわけだし、 はっきり言って、融通の利かない古い精神論者を『体育会系』と呼ぶ、 日本国民の習慣はどうにかならんのかな、と思う。 キリの奴らを引っ張り出して名前付けて、全体を呼ぶのは止めてくれんかな、と。 例えば、集団行動、なんてのがありますね。 『俺はみんなで同じ事とか嫌いだから』=『非体育会系』みたいな感じだけど、 体育会系だって、みんなと同じコトしてたら一生勝てません。 力を合わせないと出来ないようなこと(掃除とか)に関しては、最低限ルールを。 個人のことに関しては個人の裁量で。 当たり前ですけどね。 じゃあ、最低限のルール抜きで社会は成り立つかって、そりゃないよね。 例えば、9時までに出社して、5時までは働く、だって立派な集団行動。 降りる人を先に下ろして、それから乗り込む、ってのもそう。 程度の低い奴らの言ってることが間違ってるだけであって、 集団行動そのものに非があるわけじゃない。 あと、上下関係、なんてのもありますね。 僕も大学時代よく見ましたよ、他大学のやつらで、 同回のヤツが、先輩になった途端に威張り散らしてる光景とか。 まぁ、だいたい、上下共に頭が足りないんだけども。 まぁしかし、コミュニケーション能力の欠如を、強制で埋めるのは、 体育会に限った事じゃないっしょ。 痛いところ突かれた教授とか、生徒の苦情にうんざりしてる学校職員とか、 社会の至る所にあるでしょう?無意味な上下関係。 だからさ、物事の認識の順序が逆なんだよ。 良くある社会のパターンの一部としてダメな体育会系があるんであって、 そのパターンの名称が体育会系ではないワケよ。 で、実は上下関係がなかったら、社会システムはもっと非効率なわけで、 ああ、敬語とかではなくて、パワーバランスの話だけど、 要はそこにある必然性を説明できるかどうか、でしょう。 尊敬できない先輩に対しては、尊敬できません、と言えば済む。 僕もいましたよ、下らんこと言う先輩とか。 でも、幸運にも、殆ど全ての先輩はいい人だったし、尊敬できた。 尊敬してるから、敬語になるし、尊重する。 下らん人は、敬語しか、尊敬を感じる部分がないから強制する。 世の中もそうでしょ? 体育会系、と呼ばれていることの殆どは…知識不足による幻想だね。 僕は文化系の家庭に育ってきたし、 高校もそういう空気が強かったから思うけど、 ダメなヤツは、何系でもダメですよ。 ちゃらい会話する分には、 『あいつって、ホント体育会系だよねー頭悪いって感じ』 『だよねーハハハ』 で済むんだけれども、 (ネタとしての『体育会系』) 大事な話をするときには、その単語はかなり、 認識の省略を含んでるって事に気付かないと。 認識の省略ってのは… そのことの重大さをあんまり分かってない人が多いけど、 集団行動や上下関係の強制と同じ事ですよ。 アメリカの戦争行動だってそう。 戦争に導いた人間達は、 きちっと考えて世論を誘導していた(善し悪しは別にして)けれども、 それを支持した人間には、認識が足りなかったんじゃないかな。 尊敬を強制する人間や、言ってもわからんような、 いわゆる体育会系にばかりぶつかってきた人は、 本当に不幸だなぁ、と思う。 でもそれ、マジで底辺ですぜ。 まぁ、底辺が一番たくさんいるんで、仕方がないけれども、 その思想丸ごと否定すると、実は人間の活動を否定していることになったり、 自分も大して変わらない人間だったり、 (相手の非を説明できないから単語を出してるだけなんだよね) そういう残念な状況になるんだが、 多分、気付いてない。 体育会系じゃないところでも、同じ性質を持ったダメな奴らはたくさんいるのにねぇ。 僕は、一生懸命やってる人たちに、そんなこと言う気にはとてもなれんなぁ。 まぁ、残念な世の中なんだけれどもね。 概して。 こんな僕でさえ、気に入った世界も、その中には含まれているだけに、 その単語の使われ方には、少々神経質になるのでした。

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