浮雲に翳る街のように

2006年を迎えて以来、顔を合わせる友人の多くが、
僕の顔を見てまず、元気?凹んでない?というような意味のことを尋ねる。
確かに、恋愛のこと、人間関係のこと、イベントのこと、
心配されるような要素はいくらでもある。
終いには、胃まで壊しちゃってるんだから、
僕でさえ、この人大丈夫かな、と思う。

皆さん、ご心配ありがとう。


実際のところどうか?と言えば、
胃が壊れるほどストレスが溜まっているのは事実だけど、
本人はさほど気にしてはない。
むしろ、秋頃から今までに起きた、様々な出来事に対して、
ネガティブな感情は抱いていない。

恐らく…このサイト、そして僕自身を長く知る人であればあるほど、
心配してくれてるんじゃないだろうか。
でもね、繰り返すけどさ、
自分でもはっきりと分かるくらい、何かが変わったんだよ。


先日、自分の書いた文章を読み返していて、
一昨年の夏に書いた文章にぶちあたり、そうだ、これがきっかけだったんだ、と思った。
その文章は、『darkness』『brightness』という、
二つの文章から成るもので、
僕にとっては、自分の心境の変化を、きちんとまとめている文章になっている。
この二つの後書きに当たる、『d x b』という文章の中で僕は、
この感覚は、いずれ、大きな意味を持ってくると思う。
確信というより、まだ予感でしかないが、
現在、そう思っているのだ、と言うことを、未来の自分に残しておく。
と書いているが、その想いは日を重ねる毎に強くなる。
感じるもの、というか、想うことが、それ以前とは変わってしまっているからだ。
決して強がりや幻想ではなく…
2004年4月から、8月に掛けて、ゼロから再構築したものが今に繋がっている。
周りから見れば、ほんのわずかなことで、
話をしてる分には気付かないようなことかもしれないけれども、
僕にとっては、全く違うこと。

好みとか、性格とか、趣味とか、そういうことではなくて、
そういった、本質的な部分の上に乗っている、装飾的な人格的性質ではなくて、
もっと本質的な部分に近い、いわば反射レベルのような部分において、
僕は変わってしまった。


いや、悪いことではないよ。

でも、どんな変化も、すべからく良いということはない。
まだ分からないけれども、ひょっとすると、情緒的な部分を失ったかもしれない。
不安定ゆえの、思い切りの良さとか、思考の幅とか、
自分の感覚を強硬に押し通すこととか。
失ったかもしれないことはたくさんある。


だからね、最近つとに思うのは、
みんなが思ってるほど凹んじゃいない、ってことさ。
『大丈夫?』『凹んだ?』
という言葉を聞くたびに、否定はせずに苦笑いをする。
その意味は、んーそうじゃないんだよな、ここ、凹むとこじゃないよ、
そうした感覚。

年明け早々以来、DJが全く上手くいかなくて、それに関しては本当に凹んでるけど、
まぁでもそれもね、考えてたって仕方がないことだからさ。
準備をして、本番では出来ることをやるだけだから。
ダメだったら反省。良くても、反省。それだけだね。


案外、最近仲良くなった人の方が、
今の僕を正確に捉えてるような気がする。

やっぱりどうしてもさ、僕らが人を判断するとき、
目の前にある状況に、今までのことを加味して判断を下すわけなので。
全く先入観ゼロってわけにはいかない、
だから、深く知った人ほど、
ある時期以降の僕の考えていることは、理解できない…
というか受け入れられないのではないかな、と思う。


むしろ、
『秋頃から今までに起きた、様々な出来事』そのものが、
良いことも悪いことも、
こうした変化をベースに成り立っていると思う。
必ずどこかに、そういう要素があって、
昔の状態と比べて、不思議だなぁ、と感じている。
だから、僕は納得している。

今は、陽(ひ)も陰(かげ)も、そう言うものとしてとらえている。

街を照らす陽の光は、いずれ遮られるし、
遮られたからといって、漆黒の闇に落ちるわけでもない。
ただ街は翳り、そして照らされるだけだ。



きっと、取り残された人たちは、よく飲み込めないままで、
何が変わっているのかさえ、見えないだろうと思う…
そればっかりは、説明できない。
見て、話して、触れてもらわないときっとわからない。
この文章の言葉面を眺めても、
きっと、なにひとつ分からない。

いやもしかしたら、わからないことが、わからないかもしれない。
モノをゼロから見ること、
それは、感じることを、極限までシンプルにすることだ。


長い苦悩の時期を終えて、
僕はもう一度それを取り戻そうとしているのだろう。