「『全然いい』は誤用」は迷信という話

いろいろな辞典・辞書のイラスト

下書きに入ったままだったものをサルベージしてみるシリーズ。こちらはなんと2011年12月13日に書かれたまま、9年間も放って置かれたもの。その当時注目の記事になってて何か書こうとしたものの、時期を逃してしまって書きそびれたとかそんなことなんでしょう。記事中で参照していた記事が今でもまだ生きていたので、改めて取り上げてみます。

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漢字検定をやってみようかなと

漢字

「何か勉強をしたいな」という思いはずっとあったものの、なかなか踏み切れないで何もしていない僕です。がっつり学校に通ってというのは時間的、コスト的に厳しいものがありますが、ちょっとしたテキストを取り寄せてとか、自宅で準備して検定を受けてとかそういうのであれば出来そうな気がします……が、やれてないんですねえ。勉強する習慣は一度手放したらなかなか戻らないってのは、3年前に運転免許をとったときに思いましたが、同時にその時、少し時間を掛ければ勘は戻って案外、勉強する態勢に入れるというのもわかりました。

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失敗させれば良いんだと気付いた話

公園のイラスト

居酒屋で大学生に仕事を教えているとき、上手く話が伝わらないことがあって、なんでかなと考えた末、そもそも失敗したらどうなるかを知らないからリスクを伝えてもわかるわけがないという結論に至ったことがあります。「そんなの当たり前じゃん」と思うかも知れないけれど、教える人間ってのはそういうことやってしまいがちなんですよね。大事だと思うことを次々に教えたり、失敗しないようにあらかじめ柵を立てたりね。教える方は親切のつもりでも教えられる方にとっては鬱陶しいだけ。だったらリスクを教えるに当たって失敗させた方がわかりやすいんじゃないかなって。

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学習の意義

チョークで描かれた絵15 「学校でする勉強が将来何の役に立つって言うんだ」「微分積分で飯が食えるようになるのか」みたいなことは、中二病真っ盛りの少年だけでなく、いい年した大人も口にするのですけど、そういう発言に対してきちんとわかりやすく説明出来ている人というのはあまり見なくて、むしろみんなで「そうだ、そうだ」と盛り上がって終わりみたいなのが多い気がします。大げさな言い方をすれば、無学な自分を否定しないための、教育制度の否定みたいなの。ま、別に高校数学が出来なくたって人生にはさして影響ないと思いますけどね。僕は。

どう説明したら良いのか

誰に説明するかによって、わかりやすい「例え」は変わってくるとは思うのですが、例えば、1日1時間程度はゲームをするような平均的な高校生男子に説明するとすると、そもそも、学習内容そのものには意味は無いのだということから説明しなくてはいけません。教育というのは、育成シミュレーションゲームとか、パワプロとかと全く同じ構造で設計されているんです。 野球育成ゲーム「パワプロ」では、練習メニューによってプレイヤーのパラメータが上がったり下がったりします。「ダッシュ」で敏捷+10、筋力+5、精神-5とか(適当です)。メリット、デメリットを考えながら連取メニューを組み、自分が欲しい選手に合わせたパラメータを作るのが、成功への近道です。長打力のある選手が欲しいからと言って、筋トレばっかりしていると、技術が足りなくて、「当たればでかいけどスイートスポットが極端に小さく、守備も全く出来ない、走れない選手」が出来てしまいます。もちろんそういう需要もないことはないでしょうが、一般的な育成ではすべての要素をバランス良く上げることが望まれるでしょう。特殊な選手は、バランスの良い育成をベースとした上で、プラスアルファとして専門的な育成を行うことになります。まあこの辺は、「パワプロ」に限らず、あらゆる育成シミュレーションで常識だと思うので、そういうゲームをやったことがあれば解るでしょう。 で、学校教育も同じなわけです。 幼少時から数学に特別な才能があった、というような特殊な場合を除いて、教育の場では、色んなパラメータをバランス良く上げることが求められています。それは、国語、数学、理科……と言った教科の話ではなくて、「読解力」「論理的思考力」といった、人間としての能力の話です。課題によって、国語で論理的思考力を上げることも出来るでしょうし、数学で読解力を上げることも出来るでしょうが、一般的には国語の方が読解力を上げるのに向いていて、数学の方が論理的思考力を上げるのに向いています。各教科、各項目にそういったパラメータへの影響力が設定されていて、すべてを履修することで、バランスの良いパラメータを取得出来るというのが、教育の根幹です。もし、数学がどうしてもダメで忌避するのであれば、そこで上がる予定だった分のパラメータを、他の教科で補う必要がありますが、高い数値を獲得するための科目は、その分難易度も高く設定されていたり、前提として高いパラメータが必要(読解力の訓練なのに一定以上の論理的思考力も求められる、など)になっていたりします。なかなかに難しい。でも、これを行わないと、論理的思考力に欠けた人間や、読解力に欠けた人間が出来てしまいます。 学習の意義というのはそういうことです。 大人になって、微分・積分の具体的な手法を覚えている人なんてごくわずかでしょう。そんなのは、ぶっちゃけ、忘れてしまって良いんです。でも、それを学習する過程で培った、論理的思考力などは、学習内容を忘れたあとでも失われません。本当に必要なのはそちらの方であって、微分・積分自体はそれを習得させるための「具」でしかない。だから、何度も言うように、同じ能力を獲得出来るのであれば、それが数学である必要は無く、ディベートであったり、実務体験であったりしても構わない。ただ、だからといって、数学に学習意義がないかというとそんなことはなく、より効率的に能力を取得出来るのが数学。要するにそういうことです。 こういうのは、大人になったからこそ考えられることであって、高校生の自分が思い至ることが出来たかというとはなはだ疑問ですけど、でも、高校生がそういうことを言いだしたら、教科がどうとか、科目がどうとかではなくて、そういう視点で必要性を説いてもらいたいなあと思います。そういう理解の方が、学習の必要性を感じられると思うし、特に数学なんて、そうしてやってみて解るようになれば、絶対面白いと思うから。僕はたまたまきっかけがあって数学が大好きになりましたが、誰しもそうとは限らないし、きっかけがなくて国語は好きになれなかったし。出会いってもんでしょ、といわれれば、そりゃそうなんですけどね。

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出来ることと、出来ないこと ―― 指導するときの「見積もり」、指導される時の「整理」

新しいことに挑戦しているとき、次のような葛藤が生じることがあります。

  1. 自分自身が作る「そんなことは自分には出来ない」という壁が成長を邪魔しているのではないか
  2. 出来ないことを要求されすぎて、どれを最優先にやっていけば良いのか混乱しているのではないか
一般的には、「モチベーションが高そうに見える」という理由で1が支持されることが多いでしょう。すなわち、「自分には出来ない」という壁を作らず、なんでも積極的に新しいことにトライしていくべき、と。それが出来ないのは歳を取って色んなことを知りすぎているからだ、というのも事実であろうし、年を重ねてから始めることの成長が遅い理由の1つでもあろうと思います。 ただ、大学時代の人馬の調教から始まって、色んな指導する人/指導される人のコンビを興味を持って見てきた僕の経験で言うと、その「なんでもトライしていく」姿勢をポジティブに捉えることが出来るための一番の要因は、本人ではなく、その指導者が状況をきちんとコントロールできていることです。与える課題が多すぎず少なすぎず、本人の能力を少し超えたものをちょうど良く与えているという状況があってはじめて、無心でトライしろ、ということが可能です。 逆に言えば、指導者が適切に状況をコントロールできていない状況での「なんでもトライしていけ」というアドバイスは、それは単なる戦術無き精神論であり、成長のための指針ではありません。本人に「混乱の芽」が生じていることを見て取って、課題や優先順位を整理し、状況をよりシンプルにしてやることが必要です。 「これが出来るべき」「出来て欲しい」という要求も大切ですが、大事なのはそれが本人にとってどれくらいのレベルの課題であるかを測り、要求を我慢すること。上手く行っていない指導の過半はその要求が過大で、指導される側が混乱するか、自信をなくすか、モチベーションを落とすかという状況になっていると感じます。もちろんレベルの見積もりを誤って課題が甘過ぎても(要求が過小すぎても)それは良くないわけですが、指導者には通常「よく出来る人」がなることもあって、要求が過大になることが多いです。「これが出来たらあれも出来るようになる」と考えたくなる気持ちは解りますけどね。でもそれは出来る人であるから見えることで、目の前のことを1つずつ処理している人間には見えないことです。 指導される側に回ってみると、自分に課されている課題が1なのか2なのかはっきりとは自覚できないのですが、それでも指導者が状況をコントロールできているかどうかは、少し見えます。真面目な人であればあるほど、自分の状況を無条件に1だと判断して、闇雲に頑張ってしまいがちなのですが(僕もそれで疲れてしまったことがこれまでに何度も)、出来ることと出来ないことをきちんと整理し、自分にとって必要なことを取捨選択しながら、1つずつ課題をクリアしていくようにすることが大事だな、そう思う日々です。

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トレンドを恒久的なものと認識するのは単純に事実誤認

今話題になっている、大阪市の家庭教育支援条例のネタ元になった人の教育論のお話です。

参考

大阪市・家庭教育支援条例 (案) ――― 全条文 (前文、1~23条) 大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案について – lessorの日記 子どものいない僕には教育論を語る資格は無いかも知れませんけれど、
(伝統的子育ての推進) 第18条 わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり、こうした子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する
という記述を読むと盛大に何かを吹き出してしまいます。 「伝統的」の使い方適当すぎw

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選手は大人だなぁ(Sports Graphic Number 773号「名将の言葉学。」)

Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2011年 3/10号 [雑誌]Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2011年 3/10号 [雑誌]
文藝春秋 2011-02-24
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Number最新号を読んでるんですが、なんというかかなり熱いです。 「選手には表向きこういってるけどこれはこういう意図を持ってわざと言ってる」みたいなことを 指導者が公言しちゃって良いのか心配になりますが(苦笑)、 多分それも全部考えた上でインタビューに答えてるんでしょうねぇ。それだけの思慮がある人が並んでますし。 普通にインタビュー集として読んでも十分に読み応えのある特集で、凄く面白い。 何度も読みたい一冊だなぁと感じてます。

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難しい表現を使う人と教えること

友人がその知人のこんな言葉をリツイートしてた。 (自分は知らない人なのでソースは伏せてます。返信とかではないので気にしない方向で)

時々、難解な文章書く人がいる。難しい感じや単語を使って書いてある。それを子供向けにしてもらうと全く書けず実は本人がわかっていない事がわかったりする。人に教えるとはそういう事。わかったふりが浮き出てくる
いやー真理だと思います。ただまぁ人に教えるって難しいよね… 特にこれをリツイートした友人は毎日悩んで、僕なんかが及ばないくらい悩み考えてるんだろうなぁと思うんですけど、「教えるのが難しい」のと「難解な文章を書く」のとは実は全く関係がないのではないかなぁと思ったり。文章上の装飾として、「平易な表現では書けない」の強調として「普段難解な文章を書く」が出てきているのだろうなと思うのだけど、普段平易な文章を書いている人であっても、誰か向けの文章ってのはなかなか書けないもんだと思うよ。それが不特定多数向けならより一層。

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高校の時の教師って何であんなに自信満々だったんだろう

一般的な「高校教師」の話というよりは、僕の恩師である特定の教師たちの話なのだけども。 高校のとき、受験というゲームのテクニックを上手く教えて生徒の点を伸ばすことで胸を張っていた教師がいたのだけど、社会に出て働いてから振り返ってみると、社会人としても教師としてもそのことは別に大して凄いことじゃないわけで(一部の極端な進学校を除いて、教師にそこまで望んでない)、対生徒としては「生徒にものを教え導いていくためには堂々としていなければならない」のだったとしても、あれは本当に職業人として自信を持っていた上での態度だったのかなぁと少し疑問に感じた。 僕はその英語教師をあまり好きではなかったのでちょっと意地悪なことを書くけど、もし仮に言動通りに「俺SUGEEEE」とか思ってあの態度でいたんだとしたらなんつーかもの凄い痛い。進学校の高校生がある時期以降勉強にひたすら集中せざるを得ないことを考えると、「もっと他に教えることあるだろ」という言葉は非現実的だしそんなことは絶対に言わないけども、だからといって塾の講義や自宅の勉強でも出来るような件について高校の教師が授業していて、それが俺の仕事だと言っちゃうのは何かなー当時も違和感持ってたけど、自分で自分の仕事を持った今だと余計に違和感感じる。もし本当にそれだけだったんだとしたら、申し訳ないけど尊敬できねーよっていう。まぁ、担任じゃなかったから授業のことしか知らんけどね。 てか…考えてて思ったけど、教師って大変だな(苦笑) 自分とえらく年の離れた子ども相手に、根拠があろうが無かろうがある程度自信を持って接しなくてはいけなくて(教育学部附属で教習生をたくさん見てきたからよく解ってる)、意識的にせよ無意識的にせよ年下の子どもにたいして余裕をもって接する(ある程度下に見る)けどそれに疑問持ったら負けで、「受験なんかどうでも良いじゃないか」なんて口が裂けても言えなくて、でもって毎年メンツが入れ替わる。 先生方、いつもお疲れさまです。 ありがとうございます。

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