Friday Five – 2013/01/25 : Noshables!

およそ4ヶ月ぶりとなるFridayFive。コミュ主のコメントによるとこれだけ長い期間空いてしまったのは、

Just wanted to drop a note to everyone to try to explain the comatose state of this comm over the last several months. To put it bluntly, I let RL take precedence over the comm. A lot of stuff happened that made it difficult for me to find the spoons to deal with this comm. That includes getting schedules made up for the other mods to post question sets. It’s not pretty, but it’s the truth. Thankfully, things have mostly settled for me now, so we’re starting up again from scratch as of today. Here’s hoping you still choose to come along for the ride with us.
簡単に言うと「リアルが忙しくて時間取れなかったの。ごめんね。でも何とか出来るようになってきたよ!」。うん、そういうことってあるさーマイペースに行こうぜえ(「RL」→「Real Life」の略って初めて知った)。 というわけで今回のテーマは「Noshables!」。 ……「Noshables」ってなんだろう。。 thefridayfive: The Friday Five for 21 September 2012…

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「京都人は古いものを壊すのが大好きだよね、という話。」の追記。

こういうブクマコメントいただいた。

明治維新以来新しいものを取り入れないと取り残されるという危機感が常にあって、その癖歴史や伝統に変なプライドを持っているのが京都人だけど、わたしはそんな京都が大好きですよ
「危機感」。「新しいもの」。 僕はそれは誤魔化しだと思っている。始めはそうでは無かったかも知れないが、今ではただの言い訳でしかないように思える。古い建築物を新しい鉄筋コンクリート建築で塗り替えていくことが、それを「新しいものを取り入れる」と称することが、それが今はただの言い訳にしかなっていないのだと言うことを言っている。 まず第一に、「新しい」というもの、それは文化として日本全国にいくらでもあるものでちっとも新しくない。全く新しくない。見飽きていると言っても良い。そんなのは誇れる新しさでは決して無い。第二に、その街で「古都京都」を名乗るのは無理がある。日本全国どこに出しても遜色ない街に古都らしさなど見つけられない。第三に、「取り残された」部分で食い扶持を稼いでいるのに、危機感という言葉は嘘くさい。もし「取り残された」部分がなかったら、本当に京都は歴史に取り残された都市になってしまう。「取り残された」部分があるからこそ、取り残されずに済んでいるという事実を認めない。 「取り残された」部分を必死で守っているのは、ごく一部の志のある人たちだけだ。一般市民にそんな気がある人は少ない。それが街の変貌の割合として表出している。僕が憤っているのは、経済的な理由であっさりと街を変えていく人たちの意識の低さだ。経済的理由を解消させられない京都市や京都府の方針だ。力になれない僕らの非力さだ。街を歩いて欲しい。京都人は自らの手で京都を殺している。2012年、家の近所だけで全部で6軒の新しいビルが建った。そのうち2軒は明らかに保護されるべきレベルの建築物だった。今は方や駐車場、方やどこかの会社の自社ビルだ。それのどこが新しく、それのどこが危機感をフォローするのか聞かせて欲しい。それによって京都の何が救われたのか。 そんなものは誤魔化しだ。経済的合理性による活動に、「新しいものを常に取り入れる」という誤魔化しのタグを付けるのを止めさせるべきだ。そんなのはちっとも新しくないよ。もちろん古くもなく、とりたてて価値も無い。それなりの地方都市に掃いて捨てるほど落ちてる事象だ。「新しいものを取り入れている自分」を客観的に見つめ、そんなのは誤魔化しだと理解すべきだ。そんなの、ちっとも新しくないよ。そんなのちっとも「京都人らしく」ない。僕も大好きな京都人はそんなのでは無いはずだ。京都人ならもっと上手い方法を見つけるはずなんだ。醜悪なひさしをマンションの一階に付けて「景観を乱さない」などと嘯くような、そんなくだらない誤魔化しはたくさんだ。

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京都人は古いものを壊すのが大好きだよね、という話。

「修学旅行でがっかりした観光地あげろ」なんて言う話になると出てくる京都の話。確かに見栄えのある観光地もたくさんあるのだけど、都市として京都は完全に日本の平凡な都市そのもの。京都に住んで18年、京都の街のど真ん中で暮らし仕事するようになって10年くらい経つけれど、毎年数え切れないくらいの歴史ある建造物が街から消えていく。伝統あるかまぼこ屋も伝統ある雑貨屋も伝統ある和菓子屋も、古着をゴミ箱に投げ捨てるようにして建築物を取り壊し、駐車場にしたりとってつけたようなデザインの鉄筋コンクリートのビルやマンションに作り替えていく。 京都でよく言われることは、

  • 京都人は新しいものが好き
  • 新しいものと古いものが混交しているのが京都
なんてことだけど、違うよ、大多数の京都人は古いものに愛着なんか持ってない。古くて過ごしにくくて面倒な古い建築物なんかさっさと取り壊してしまって、新しく住みやすい現代的で綺麗な住居やビルを建てたいと思っている。混交しているのではなくて古いものが消えていく過程と言うだけだ。特に市街地の中心部ではそうで、街並みがどんどんマンションストリートになっていくのを止める手段はなにもない。ところどころに、思いついたように「歴史的建造物」に指定された建物が残されているだけで、むしろ指定される前に取り壊してしまおうという感じの方が強い。 「そんなつもりはない」という京都人の反論があるなら聞くけれど、その反論をする前に京都市中心部を歩いてみて欲しい。丸太町、河原町、四条、堀川で囲まれた正方形くらいの範囲で良いかな。どれだけの数の建物が取り壊され、以前あった建物とは似ても似つかない建物に建て替えられているかわかるだろうか。それが京都だと言われたら仕方ないけれど、僕はとても残念に思っている。毎年、毎日、思ってる。せめて木造から建て替えられた、大正や昭和初期のコンクリート建造物くらい保管出来ないものかと思うけど、公共性の高い建築物である場合を除き、そういう建物も割とあっさり取り壊される。古くなったものは常に新しいものへ。 だから、観光地に行くとそこが京都ではないようなめまいさえ覚える。そこに残されているのは京都ではなく、京都だったものだ。観光地といわれる場所に京都だったものを残しさえすれば観光客は来るから、京都人は京都的なものを京都という街中に残すことに余り執着がない。「京都と言えば町家」なんて言われるけど、一部の志のある不動産屋や建築事務所、また意欲ある経営者が熱意でもってそれを保護しようと努力している場合を除き、更地にされマンションへ代わる運命だ。貴重な建造物は毎年減っていて、そして、二度と戻らない。 京都人は古いものを壊すのが大好きだ。守っているのはそれが目に見える利益になる時だけだ。京都も京都人も大好きだけれど、そういう姿勢を見続けるのはとてもつらい。なぜもっと、古いものも大事にしようとしないのか。とてもつらい。

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新しい職場のトイレに関する雑感

  • ウォシュレット付き(TOTO アプリコット)
  • 便座の温め常にオン
  • 水流したあとの脱臭機能も常にオン
  • ウォシュレットの勢いを最強にしたまま出て行く人がいる
  • トイレットペーパーの交換をせずに新しいの出してその辺に転がしとく人がいる
  • トイレットペーパーの交換をしたあと芯と包装紙を個室内に放置しとく人がいる
  • 男子トイレなのにトイレットペーパーを三角に折る人がいる…と思ったけどよく調べたら掃除のおばちゃんだった
  • TOTOのウォシュレットはうちで使ってるのに比べるとピンポイント感が凄い
  • 一応毎日掃除されてるし汚れてたことはない。綺麗。
  • SOHOオフィスは2フロアあるけどウォシュレットはそれぞれ違う。5階のヤツはウォシュレットのボタンを押して水流す形式。アレどういう仕組みになってんの…レバーが遠隔で動くんですけど…
現場からは以上です。

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家庭内暴力と同じように体罰も文化として継承してしまっているもの

てなことを、サッカー日本代表のアルベルト・ザッケローニ監督のコメントを読んで思いました。

日本代表のザック監督「選手を成長させるために暴力は必要ない」 – サッカーキング

日本代表のアルベルト・ザッケローニ監督が、体罰問題について自身の考えを明かした。  ザッケローニ監督は、31日に行われた日本代表発表会見の質疑応答の際、指導者の暴力行為への考えを問われ、「イタリアでは起きにくいが、新聞を通じて情報は入っている。非常に驚きが大きいというか、こういうことがあるというのはやはり残念だなと思う」とコメントした。  また、「指導者やインストラクターの重要な役割の中で、アスリートを成長させる、育てていくということが挙げられるが、それを達成するために暴力というものは必ずしも必要ではない」と語り、「ときに我々監督は怒るし、感情を露わにすることもあるが、それと選手に体罰を与えるということは直結しない。少しの情報しか得ていないので多くは語れないが、レアなケースが表に出てきたと思いたいし、今後そのようなことが起こらないことを祈りたい」と、自身の思いを明かした。

どういうことかっていうと、無いところにはずっと無いんですよね。そしてそれ無しで上手く行く方法があります。それが無いから上手く行ってないなんてことは全然無い。それが無いと上手く行ってないところには、それ無しで上手くやるための何かが欠けている。そういうことだと思うんです。ザックが言うとおり、イタリアにはそれが無くて上手く行くための方法が十分に浸透していると。や、例えば日本の今のサッカー界には「それが無くて上手く行くための方法」が十分に浸透しているのかも知れませんが、そうではない部分もある。それが、柔道界だったり、少し前の相撲界だったり、一部の体育会系クラブだったりするわけです。 必要なことは、暴力の否定だけではなく、「それが無くて上手く行くための方法」を「それが無くて上手く行っている人たち」から学ぶことなんじゃないかと。その両輪があって初めて上手く行くんだと思います。

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