財布に何百万も入れて花街に遊びに行く生活を夢見るだろうか

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先日聞いた話。


今60代半ば、30代の奥さんがいて小さい子供が2人いるという男性。

銀行口座に何億という金があったけれど使っても使っても減らなくて、何百万と財布に入れて花街に出掛けて遊び歩いていた。ある日その財布を落としたが財布に躓いて交番に届けてくれた人がいて、こんなんじゃあかんなと思い直して遊び歩くのを止めたんだ……という武勇伝的な話。バブルが弾けた後の話らしいからそれ自体はすごいなあと思うのだけど、でもその聞いた話を興奮して話してくれたバブル世代の「おっさん」ほど、その話を興奮して聞けない僕がいる。シンプルに妬みとか、もしくは金のない自分から見て現実感がないとかそういうことではなくて、 なんだろうなあ、そういう人生を夢見て生きたことがないんだと思う。




お金を持っているのはシンプルに羨ましいけれど、「何百万持って花街へ行く」ということ自体に羨ましさを全く感じない。これが、趣味の自転車に何百万もつぎ込み、好きが高じて億単位のお金を投じて自転車チームを作ってしまったとか、自分主催の招待レースを毎年やっているとか、そういうお金の使い方であればものすごく羨ましく思う。でも遊び歩きたいかというと……

「豪遊」する話にときめかないのはなんでなんだろう。単純に世代間ギャップなんだろうか。同じお金をたくさん持っている人でも、色んな活動に出資・投資・協賛していたり、エンジェル投資家をしていたり、社会貢献活動に熱心だったり、人知れず環境保全にものすごい額のお金を使っていたり、そういう話だったらものすごく感じ入るところがあるし、話を聞いてみたいし、興奮する。会社とは関係ない、個人で出資してやっているビジネスの話でも良い。お金がないという理由で形にならないことが世の中にはたくさんある。


京都の旦那衆には昔からある価値観なのかもしれないけれど、ある程度お金を持った人はその金を持って花街に行くとかね、今そんな価値観を持っている人がどれくらいいるだろう。居酒屋の常連さんには2人くらいいる。どちらももう60歳は優に超えている。友達の父親も、健康で会社にまだ金があった頃はそうだった。だけどほとんどの京都人にはそういう感覚はないし、そのエピソードで別にそこまで興奮しないのではないか。僕がしたように「その金があったら僕ならこうする」という話はするかも知れないけれど、「俺も分厚い財布を持って祇園で遊んでみたい」とはならない。そうじゃないんだよな。


話をする側聞く側の、このエピソードに対するテンションのギャップがものすごくて聞いていておかしくなってしまった。僕だったらその60代男性の豪遊話をそこまで楽しく聞けただろうか。無理だろうなあ。どれだけ取り繕っても、興味ない感じは恐らく隠せない。だって全く興味ないんだもの。スマホいじりながら「すごいっすねー」って言うくらいのレベルで興味ない。でもこれが価値観の違いってヤツなんだろうなあとも思う。僕が水商売に向いてないってことなのかもって一瞬思ったけど、でも最近の水商売の人だって花街で遊ぶことを夢見たりしないんじゃないかな。老舗の若旦那とかには継承されているのかも知れない。これが京都人の……いや、東京だって大阪だってそうか。銀座や北新地はそのためにあるわけだし。これはもう、ある種の人たちの業みたいなもんなんだろう。