自己基準の拡大解釈(FOLDER SHARE、その後。)

以前紹介した、FOLDER SHAREなんですが。 引き続き使い続けてます。 便利ですねぇ。 主な用途は、素材系画像の共有と、 (あれ何処行ったっけ、ってあれ自宅かよ、防止) 音楽ファイルの共有。 あ、但し著作権法に触れることはしてません、念のため。 あくまで二重にリッピングするのがだるいので、 iTunesディレクトリを同期させてるだけです。 設定だけしてしまえば、後は意識する必要がないので…いいですね。 もちろん、本当なら、きちんとハードウェアを整備して、 VPNを導入すれば、もっと便利なんですけど、 ああ、SoftEtherなどのいわゆるVPNとどこが違うかというと、 GUIとして片方からもう片方のファイルに、能動的にアクセスすることが出来ないですね。 基本的には、ファイルを持ってきて、アクセスするという感じ。 行ってみれば、双方にFTPサーバを立てた、みたいな感じです。 仲介するのは、ブラウザ。 で、なんでいまさら重複するエントリを書いてるかというと、 CROSSBREEDのコメントの中に気になるコメントがあったんだけど 僕がマジレスするわけにはいかないので(笑) こっちでコッソリ書いてみたりして、、

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疑う訳じゃない、感じる前に感じろってことだ

以前、BOT調査の中で取り上げたバカヤマの方からコメントを頂いたので、 お邪魔してみました。 その時プロフィール用エントリの一つにあった言葉が、 どうも僕も思っていたことを簡潔に表していたので、うーむ。と考える。

“他人と違う行動をすることから快楽を得るような生き方にシフト”することを薦めておられるみたい。(中略)ほとんどの人は『皆がそうしている』から『とにかく差をつけ』てみようと行動するだろうしさ、(中略)そうなると今度は“自分は平凡な人じゃないと思いこんでいる平凡な人”が大量発生してますます世間が狭く息苦しくなるでしょう、きっと (怖っ 結局大切なのは『自分に一体なにが必要なのか』を一人ひとりが精確に理解することなのかも
僕は、これは本当に大事だと思うのですよ。 僕が自分も含めたいろんな人のことを見ていて思うのは、 何かをしたい動機が、そういう例があるから、ということが異常に多いと思うのです。 このあたり、小寺氏のコラム(@ITmedia)とかぶるけど、 他人と違う行動が、何かを選択することから成り立っているわけですよ。 『着せ替えケータイ』なんてその最たるモノだと思うのだけど、 20種類から1つを選ぶなんて、個性でもなんでもない。 それなら、まだ、プリクラを貼りまくる女の子の方が個性がある。 でもじつはそれにしても、『プリクラを貼る』という行為自体が、 パッケージとして、携帯に付随して『提供』されていると考えることも出来る、 単に、そういう成功例があるから選択したと言うだけのことだ。 平凡じゃないことを求めて、さまよい続ける迷路、 それは実は個性の探究ではなくて、あくまで選択肢を選択し続けることだ。 僕は昔から、『今年の流行色』なんてのが疑問だったんだが、 はっきりいえば、そう言う選択指針を示してもらった上で、 あがき続けるのが、現代の個性ってことだ。 そう言う視点で言えば、先にピックアップしたエントリの部分、 何が違和感があるかというと、 最初の、 『他人と違う行動をすることから快楽を得るような生き方』 という一連の言葉には矛盾があるからだ。 これは1つの生き方モデルでしかない。 他人と違うように生きようとする、生き方モデルだ。 言ってみれば、外見が違うだけで、中身は変わらない。 他人と違う行動をするために、他人と同じ行動様式を取る、 結局、横並び、みんなと同じ、そういう思考回路からは抜け出せない。 全てが、『モデル思考』なのだ。 周りに、アドバイスや、占いや、セミナーに弱い友人がいるだろう。 僕にもそんな友人がいるが、 結局、自分の中に自分を見つけられていないから、 次々に新しいモデルを導入しようとするのだろうと思う。 そうする自分が自分だ、という逆説的な言い方も出来るが、 価値観というものは、例え切り貼りでも、そこに思考がある限り、 導入とは大きく違うと言うことだ。 そうした人たちは、思考モデルに依存して生きているから、 そのモデルが否定されたり、モデルを見失ったりすると、ひどく不安になる。 恐らく、その不安を、他の不安や悲しみと区別も出来ないと思う。 結果として、また新たなモデルを求め、 それによって安定することを、心から望む。 モデルを追うことが悪い訳じゃない。 自分の脳だけでは、思考も、発想も、限界がある。 そうではなくて、それを得るときに、それをどう扱うか、が重要なのだ。 これって素晴らしい!と思って陶酔する… まぁ、そういうこともたまにはあるけれども、 基本的には、自分の内部の思考回路と、対決させるはずだ。 選択ではなくて…思考モデル完結ではなく、 このモデルのここは良くてここは悪い、そんなことを感じられるかだ。 『良いと感じた』と発言するのは、大概、インストールしてしまった後だ。 そうではなく、良いと感じる前に、どうなのかを感じなくてはならない。 疑う必要はないが、 それを見る必要はある。 見てもわからないなら、それが分かるように、多くの知識を持つべきだ。 知識は使い捨てにするのではなく、蓄積されなければならない。 * * * まぁ…はっきり言って、人がどうだってかまわんのだけど、 違うことを追い求めることと、同化を求めることは、同じだってことだ。 結局、指摘の通り、ぐるぐると回り続ける輪の中にいるだけだ。 日本人が、そうした輪から解放されて、 もっと自由気ままに考え、行動し始めたら、 この国はもっとエキサイティングな国になると思うのだが。 (治安や政情とか悪化しそうではあるけども) なんとも、惜しい。

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差別はこうして生まれてきたのか。

こんな記事。 どう思うかは人それぞれであろうとは思う。

 オウム真理教松本智津夫被告(51)=教祖名麻原彰晃=の二男(11)が、私立春日部共栄中(埼玉県春日部市)の入試に合格したのに、松本被告が親であることを理由に入学を拒否されていたことが2日、分かった。松本被告の弁護人が明らかにした。  弁護人によると、二男は1月に実施された入試に合格。入学金も支払ったが、その後に松本被告が親であることが分かり、同中は2月に入学を拒否した。  同中の矢口秀樹校長は「入学拒否の項目を定めた内部規定は特にないが、松本被告の子が教団の影響下にないとはいえないと考えた上での判断。学校としては他の生徒、保護者が安心して勉学に励める環境にしたい」としている。
極めて、ノーテンキに差別のことを考える。 京都には、部落、と言う差別制度があるが、 静岡では殆ど見なかったので、始めはかなり衝撃だった。 確かに、そう呼ばれる地域はどことなしか不気味で、近寄りがたかったが、 京都人が感じることはどうやらそういうことではなさそうだった。 とりあえず、無かったことにする。 街全体にそんな雰囲気がある。 時折見えるビラも、忘れさせないために撒かれているような雰囲気があり、 逆に、部落は差別であると言うことを、意識させ続けている印象さえ受けた。 (差別の原因だと言っているわけではない) 『学区で人を値踏みする』という価値観にも驚いたが、 (田舎か否か判断するが、人柄までは値踏みしない…恐らく京都以外では) 僕にはどうもよく分からない。 勉強不足故に、部落の始まりについてはよく知らないのだが、 (むしろ知ると縛られそうで、見ないふりして逃げているのかもしれない) 麻原一族が、今後、何十年と迫害されつつも増えていくと、 結果として、ある程度の数の『被差別集団』を作り出すことになるんではなかろうか。 接触することを拒み続ければ、 受け入れる、受け入れないという争い以外のトラブルを生まないわけで、 現状、問題はないかもしれないけれども、 流れの中で見ればやはり間違ったことのような気がする。 彼ら(松本被告の子供達)を祭り上げる大人達には、 ひょっとしたら、法律上もしくは道義上、罪があるのかもしれないが、 彼ら自身になんらかの罪があるのだろうか… こんな状況が続いていく中で、 日本国として、彼らに適切な教育が出来ているとは思えないし、 (まぁ学校で出来るかという根本な問題はあるけれども) 結果として、多くの差別を生んでしまうだけなのでは… 『保護』した方が良いとは限らないわけだから、 そこになんらかの権力が介入せよ、と言っているわけではないのだけど、 そうではなくて、 極単純に、彼らも、彼らの周りの大人も、それを含むこの国も、 きちんと育っていってくれると良いなぁ、と思うのだ。

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時間は何も解決しない。

否、 比喩としての表現であるならば、時間は全てを解決する。 たとえ、どんなにこじれた問題であっても、 長い時間が経ち、当事者が全て死亡したり、 状況そのものが変わったりすれば、問題そのものが無くなってしまう。 でも、実際に使われるときに、 この表現が完全に比喩であると意識することは、ほぼ無い。 比喩ではなく実質的な解決を望むような場合にも、 この表現は使用される。 極めて、分析的に見てみると、『時間』が何かを解決しているわけではない。 例えば生ゴミを庭に埋め、分解されるのを待つとしても、 解決しているのは時間ではなくて、 微生物である。 人間関係、例えば、恋愛など、 どんなに考えても答えが出ない、時間に解決を任せるしかない、 そんなときであっても、本当のところは、 気持ちが薄れたり、誰か他に気になる人が出来たり、 相手に新しい恋人が出来て悩むことを許されなくなったりして、 解決せざるを得ない状況になるから、解決する。 いや、問題が無くなる。 そこで、時間がしていることは、これと言ってない。 時間は、万能な神と同列に並べられるようなものではなく、 ただそこに存在しているものだ。 いわば、ひとつの目盛りにしか過ぎないし、 『解決を時間に任せよう』という言葉はすなわち、 自分以外の他のモノが変えて(変わって)くれるのを待とう、と言う意味だ。 そこには、自己解決という側面はない。 時には、単純に、責任転嫁という結果にしかならないこともある。 寝かせた企画は、環境が変わって動きやすくなることはあるにせよ、 誰かが手を付けない限り、企画自体は進まない。 時間は、何もしてくれない。 だから、時間に任せたいときには、 それに対して自分は関与しない、ただ待つだけだ、と言う意味を自覚することが必要だ。 私は、他人を頼ります、 私にはどうすることも出来ないのです、 そう言う意味だからだ。 そして、 ひょっとすると、逆説的に感じられるかもしれないけれども、 生きていく上で、そうした考え方が重要になることもあるということだ。 ある問題で、どうしても自分以外の要素がネックになって、 解決が進まない、 そんなときに、誰かが変えてくれることを期待し、 自分としては一時的に放棄する。 それが、自分自身の問題であっても、ネックになっている部分が自分以外であれば、 それは厳密には自分だけで解決することは出来ない。 寝てる間に小人が出てくれると、もう少しことは楽に進むのだが(苦笑) なかなかそんなことはないわけだし、 盲目的に時間に任せるのではなく、 一方で、盲目的に抱え込むのではなく、 問題を見て、それを分析し、 自分と、問題とで折り合いを付けていくことが重要だと思うのだ。 時間は、何も、解決しない。

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どうも、書く時間がないというか何というか。

『すごく頻繁に更新してますよね』 とよく言われるんだけど、 んーまぁそうね、 エントリー数だけ見ると、確かにそうなんだけど、 実際の内容を見るとねぇ。 続き物とか、習慣とか、メモとか、 そういう更新が多くて、 じゃあ、僕の書きたいことが書けてるのか?というと、 案外そうでもない。 僕自身は、明らかに物足りない。 頻繁に更新するために必要なのは、 まぁ、最低限の時間はそうなんだけど、 僕の場合、時間はそれほど必要じゃなくて。 普通、皆さん、1エントリ書くのにどれくらい時間を掛けてはるのかわからないけど、 僕の場合、書きたいことは固まってさえいれば、 5-10分くらいで十分。 基本的に、書いたあと、誤字チェック以外の推敲はしないし、 (論理的な構造が必要な場合はともかくね) むしろその方がわかりやすいことが多い。 そういうわけなので、単純に時間だけが必要なんじゃなく、 なんだろうな、きっかけ?タイミング? メモとして、下書き保存してるものに、肉付けをするという何かがないと、 文章にならない。 今ちらっとのぞいてみると、 あーこれは是非表明しておきたい、 カテゴリで言えばColumn、 Tagで言うと、Ideologyに分類されるようなものが、 少なくとも、15個はある。 それを見るたびに、あーこれ書きたいなぁ…と思うんだけど、 そして、骨組みというか、筋立てというか、 文章そのものも頭の中でもうほとんどできあがってるんだけど、 それがこう、形として落ちてこない。 落ちるときは、すっと、出てくるんだけどなぁ。 まぁまたね、機会があれば書きます。 何より、僕自身が読みたいんだよねぇ。

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価値観への逃避、または同化。

1/21付け、ほぼ日の今日のダーリンにて、 誤解されやすい言い方だけれども、と前置いて、

こういう時期に「額に汗して働く」という価値観に、 逃げ込んではいけないと思うのです。
と書かれていた。 その考え方…というか、書き方が自分によく似ていて、共感した。 働くこと、努力すること、 そう言うことは素晴らしいのだけど、それが目的になると、 全体としては良くないよ、ということを言っているのだろうね。 しんどいこと、例えば残業とかだけど、 最初はこの残業が全体のこの部分を突破するために必要とか思ってるけれども、 そのうち、しないヤツはけしからんとか、 こんなに頑張ってる俺偉いとか、 何かの理由付け、必要な存在として残業があるのであれば、 それは少なくとも一つの意義は見失っているということになるよね。 自分の考え方の拠り所として、 人に聞いた話や文献を上げる人は少なくないと思うけれども、 それをどう消化しているか、という点で見れば人によって全く違う。 そう言う話に、この『額に?』という話は繋がっていく。 無自覚、無意識のまま、大枠の安定を疑問無く受け入れていく、 そういう姿勢で良いのかな、と。 ものごとをマトモに考える場合、 『良いに決まってるじゃない!』という言葉は存在し得ない。 ウィトゲンシュタインの言葉を借りるまでもなく、 例えば、この部屋に象がいることの否定は、 象がいないことの証明にはならない、 ものごとには、何であっても、きちんとした検証が必要だ、ということだ。 もちろん、僕だって経験則や感覚で乗り切れるところはそうしているけれど、 こと生き方に関する部分で、 何かの価値観、 『世間で良しとされているらしい価値観』に、 くるまれて安心することを目的に生きるようなことは、 絶対にしてはいけないと思っている。 結果的に、そうなるのはかまわないけれども、 自分と相談し、自分で決断しなければ、 その状況には命は吹き込まれない。 日本全体が、安定志向、保守化の方向へ向かっている、そういう話を最近よく聴く。 政治の問題ではない、 ひとりひとりの、判断基準の問題だ。 プログラミングに例えて言うなら、意識のモジュール化だ、 状況に合わせて、既に評価の固まっている『思考セット』を導入する。 状況に合わせて、価値観がセットになっており、 それってアリだよね、といえばインストールは完了し、つつがなく生きていける。 何かダメなことがあったら、このモジュールバグだらけだな、 って言って他のものと取り替える。 そう言う人を、もちろん京都でもよく見る。 親しい友人でもその傾向がある人はいるし、あまり関係ない。 でも僕はそれは、意識レベルでの退化だと思うんだよね。 自分の価値観、分かり易く言うと判断基準を、他の何かに頼る。 ニアリーイコールとして、判断を、他の何かに疑問無しで委ねることになる。 そこに不安や不満はないのだろうか。 もうすぐ29になるけれども、29年間、不器用に生きてきた。 遠回りもしたし、いまだってしてるけど、 でもだから、いろんなことを得ていると思う。 自分の言動には責任を持つ。 同じように、きちんと物事を判断できる友人達とも出会えた。 残りの人生が何年あるかは知らないけれども、 僕は判断して生きていく。 そして、『私もそうしてるよ!』と思った人は、 本当にそうか、考えてもらいたい。 僕も考える。 自分は、『糸井重里』と言うネームバリューに負けて、 考え方を微調整してMutterを書かなかったか?と。 『楽に生きる』ことは誰にだって出来る。 でもそれは『楽』しいかい? 作るから、楽しいんだ。

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古典で遊ぶ。

昨日、寝ようと思ったら平成紅梅亭が始まってしまって、 寝るに寝れなくなってしまった。 出演は、 露の五郎兵衛 桂米朝 酒井くにお・とおる 笑福亭松之助 桂春團治 という4人1組。 最もやばかったのは、わざわざ言う必要もないけれど…、桂米朝。 なんて言うかなー凄いなぁ、面白いなぁ、と思って聴いてた。 いや別にね、古典をやってるって言うんで凄いって言ってるんじゃないけども、 春風亭昇太の言葉を待つまでもなく、 古典も新作も関係なく、面白い噺を話せる噺家が一番良いんだと思う、 好きなようにやること、それこそ落語だと思うけれども、 そうなんだけどね、桂米朝という芸はなんだかさぁ、 そういうところとはまた別のところにいるような気がしたんだよねぇ。 枕でもネタでも、アドリブもあり、老いを感じるところもあり(苦笑)、 どう言うかな、 古典を好きなようにやっている、 古典で遊べているような気がするんだよね… こんなところで、桂米朝という噺家を褒めることに何の意味もないけれど、 この間、春風亭昇太のドキュメンタリーを見ていて、 新作にもこだわる…と言うか、落語そのものの本質にこだわる姿に、 気持ちよさ、そしてもちろん面白さ、共感、いろんなことを感じたのだけど、 なんとなく、かすかに、『古典』という単語、概念から、自由になってないような気がして、 ドキュメンタリーの描き方との間に、ほんの少し違和感を感じたんだよね。 『本格派とか、意味が分からない』 そう言う言葉には、彼自身のイデオロギーが正しく投影されているんだけど、 なんとなく、意識するが故に避けている、ような。 (本当のところどうかは僕は知らないけれどもね) や、実際に古典だってやってるし、避けてるわけではないはずなんだけど、 何か引っかかるのは思いこみなのかなぁ。 きっと、そう言うことを意識しなくなって、 古典の中で新作を作れたり、新作の中で古典をもって来れたり、 なんていうか、時代の物差し無しで、ネタが介在することなく、 噺家と客になれると、名人、と呼ばれるような気がする。 なんだか違和感については上手く整理できないままだけど、でも、 米朝は凄いね。 厚みを見た。

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僕は音楽が好きじゃないのかも。

DJもイベントもやってるんですけど、 ときどき、 『僕は音楽が好きじゃないのかも、』 と思ってしまうことがあります。 音楽好きのヒトが寄って、 『何々良いよねー』 『これとかどう?好きそうじゃない?』 『これっ!何で持ってんの?』 とかそういう会話にあんまり入れないんですね。 ジャンルを問わず。 あんまり覚えないってのもあるし、 アーティストとかタイトルに興味を覚えることが少ないってのもあるし、 そういうのを考えると、 あー俺って、そんなに音楽が好きというわけじゃないのかも、 と、思います。 まー昔からそうなんだけどね。 じゃあ嫌いなのか? と言われると、いやそんなことはなくて、 自分がいつも掛けてる曲は、間違いなく自分が好きな曲だし、 自分が好きなアーティストを20人上げろと言われれば、 まぁ、すっと出てくるでしょうけど、 例えばさ…そのバックグラウンドとかさ、 その繋がりでこれもとかさ、 そういう風に繋がっていかないわけです。 単に、そのレコードが好きなんであって、 音楽にはまってるかって言われると、微妙。 まぁ何事に置いてもそうなりがち、ってことを考えると、 もともと、そういうような『好き』の表現方法を持ってないのかもしれないけど。 スポーツにしても、なんにしても、 たくさん選手も知ってるけど、 あんまりそうやって話したりしないなぁ。 自分の中では確かに感動してるんだけど。 冷めてる、というのとはまた違う、 なんかよくわからない、違和感、溶け込め無さを、 DJやイベントの現場で良く感じる。 ホントよく分からないんだけど。 * * * それはそうと、 ついさっき、最近の自分のもやもやした状況に、 何が足りなかったのか、ようやくわかった。 詳しい説明を省略して言うとね、 運動、です。 さっき、久しぶりに、ちょこっと走ってみたのね。 そうしたら、何となく感じてた沈鬱さが、 いつの間にかなくなってて。 そうか、これだ、と。 自分で書いてた、 『精神の肉体の疲れのバランスが崩れると、良くない方へ転がる』 そのまんまの通りかもしれない。 最近色々あったからなぁ。 何も考えずに、走る時間が必要なのかもな。

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忘れること

忘れることは、人生で何番目かに大事なことだ。 ここで言う忘れる事というのは、 いずれ思い出すだろう、でも今は忘れる、そんなこと。 ものごとというのは、 例えすっかり忘れてしまったとしても、一度肌の内側に入ってしまえば、 そう簡単には失われない。 内容そのものはすっかり、跡形もなくなっているようでも… その、輪郭だけはきちんと残っている。 忘れるということは、在る意味で、記憶をアーカイブすると言うことだ。 アーカイブする先は、メモ帳であったり、深層心理であったり、”MUTTER”であったりするが、 とにかく、忘れると言うことは、失うということと同義ではない。 もし、忘れると言うことを、完全に放棄してしまうと、 確実に、他の何かを取り入れられなくなってしまう。 忘れてはいけないことは、けして離してはいけない、 でも、それ以外の多くのことは…常に持ち続ける必要はない。 忘れることを上手く出来ない人は、 結局は、全てを、『忘れていって』しまう。 何かを、得ることができない、そんな人は、 ものごとを、きちんと自分の中に収めることができないか、 あまりに多くのことを抱えてしまっているか、 そのどちらかだ。 決して、記憶力が悪いだけではないのだと思う。 情報の、取捨選択と、整理の仕方が、拙いのだ。 シャーロック・ホームズの指摘を待つまでもなく、 人間が記憶できる容量には、限界がある。 多くのことを記憶するためには、輪郭だけを残して、中身を外に持ち出したり、 またその輪郭を、整理していかなければいけない。 恐らく、人間の記憶容量は、人によってそう変わるものではない、 もし人より少なくても、容量不足に悩むほどの差はない、 きっと、目の前をどう扱うか、が、もっと、重要なことなのだ。 人間の『忘れる』は、 デジタルカメラのメモリー消去とは違う。 それは、なるべくシンプルな形で、どこかにしまうことであって、 いわば、記憶することと、同義のことなのだろう。

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