「学校でする勉強が将来何の役に立つって言うんだ」「微分積分で飯が食えるようになるのか」みたいなことは、中二病真っ盛りの少年だけでなく、いい年した大人も口にするのですけど、そういう発言に対してきちんとわかりやすく説明出来ている人というのはあまり見なくて、むしろみんなで「そうだ、そうだ」と盛り上がって終わりみたいなのが多い気がします。大げさな言い方をすれば、無学な自分を否定しないための、教育制度の否定みたいなの。ま、別に高校数学が出来なくたって人生にはさして影響ないと思いますけどね。僕は。
どう説明したら良いのか
誰に説明するかによって、わかりやすい「例え」は変わってくるとは思うのですが、例えば、1日1時間程度はゲームをするような平均的な高校生男子に説明するとすると、そもそも、学習内容そのものには意味は無いのだということから説明しなくてはいけません。教育というのは、育成シミュレーションゲームとか、パワプロとかと全く同じ構造で設計されているんです。
野球育成ゲーム「パワプロ」では、練習メニューによってプレイヤーのパラメータが上がったり下がったりします。「ダッシュ」で敏捷+10、筋力+5、精神-5とか(適当です)。メリット、デメリットを考えながら連取メニューを組み、自分が欲しい選手に合わせたパラメータを作るのが、成功への近道です。長打力のある選手が欲しいからと言って、筋トレばっかりしていると、技術が足りなくて、「当たればでかいけどスイートスポットが極端に小さく、守備も全く出来ない、走れない選手」が出来てしまいます。もちろんそういう需要もないことはないでしょうが、一般的な育成ではすべての要素をバランス良く上げることが望まれるでしょう。特殊な選手は、バランスの良い育成をベースとした上で、プラスアルファとして専門的な育成を行うことになります。まあこの辺は、「パワプロ」に限らず、あらゆる育成シミュレーションで常識だと思うので、そういうゲームをやったことがあれば解るでしょう。
で、学校教育も同じなわけです。
幼少時から数学に特別な才能があった、というような特殊な場合を除いて、教育の場では、色んなパラメータをバランス良く上げることが求められています。それは、国語、数学、理科……と言った教科の話ではなくて、「読解力」「論理的思考力」といった、人間としての能力の話です。課題によって、国語で論理的思考力を上げることも出来るでしょうし、数学で読解力を上げることも出来るでしょうが、一般的には国語の方が読解力を上げるのに向いていて、数学の方が論理的思考力を上げるのに向いています。各教科、各項目にそういったパラメータへの影響力が設定されていて、すべてを履修することで、バランスの良いパラメータを取得出来るというのが、教育の根幹です。もし、数学がどうしてもダメで忌避するのであれば、そこで上がる予定だった分のパラメータを、他の教科で補う必要がありますが、高い数値を獲得するための科目は、その分難易度も高く設定されていたり、前提として高いパラメータが必要(読解力の訓練なのに一定以上の論理的思考力も求められる、など)になっていたりします。なかなかに難しい。でも、これを行わないと、論理的思考力に欠けた人間や、読解力に欠けた人間が出来てしまいます。
学習の意義というのはそういうことです。
大人になって、微分・積分の具体的な手法を覚えている人なんてごくわずかでしょう。そんなのは、ぶっちゃけ、忘れてしまって良いんです。でも、それを学習する過程で培った、論理的思考力などは、学習内容を忘れたあとでも失われません。本当に必要なのはそちらの方であって、微分・積分自体はそれを習得させるための「具」でしかない。だから、何度も言うように、同じ能力を獲得出来るのであれば、それが数学である必要は無く、ディベートであったり、実務体験であったりしても構わない。ただ、だからといって、数学に学習意義がないかというとそんなことはなく、より効率的に能力を取得出来るのが数学。要するにそういうことです。
こういうのは、大人になったからこそ考えられることであって、高校生の自分が思い至ることが出来たかというとはなはだ疑問ですけど、でも、高校生がそういうことを言いだしたら、教科がどうとか、科目がどうとかではなくて、そういう視点で必要性を説いてもらいたいなあと思います。そういう理解の方が、学習の必要性を感じられると思うし、特に数学なんて、そうしてやってみて解るようになれば、絶対面白いと思うから。僕はたまたまきっかけがあって数学が大好きになりましたが、誰しもそうとは限らないし、きっかけがなくて国語は好きになれなかったし。出会いってもんでしょ、といわれれば、そりゃそうなんですけどね。
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