38歳になりましたよよ。

誕生日にケーキプレート貰った♪ #foodstyling ありがとうございます。押しも押されぬアラサーです。違った、アラフォーです。 子供いないせいか、特にこれと言った実感は無いんですけど。 37歳になりました。 | mutter 俺、36歳になったってよ。 | mutter 35歳になりました。 | mutter 34歳になったようです。 | mutter 33歳になりました。 | mutter 32歳になりました。 | mutter ヒゲトリマーを貰ったよ。 | mutter

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2日ほど寝込んだ

22時半くらい 1/19(月)の朝、起きたら急に熱が出ていてしんどくて、お腹も下していて、仕方が無いので昼のお仕事は休みをいただいて夜まで寝ていた。それほど熱は上がらなかったので何とか夜は仕事に行って、でもしんどいので早めに帰らせてもらって帰ってきて熱計ったらばおおよそ38℃。1日ほとんど何も食べてなかったけど食欲も無いのでそのまま就寝。 翌1/20(火)の朝はまだ体はかなりしんどく頭痛も酷いのでそのままお昼の仕事は休みをいただいて(熱はだいぶさがっていたしインフルエンザじゃなさそうなので病院には行かず)、夕方になって平熱まで下がりちょっと楽になったので夜は仕事へ。前日よりはかなりマシで、頭痛はあるものの最後まできちんと働けて、帰宅。 1/21(水)ほぼ全快。 1/18(日)の夜は寒くて、仕事帰りもかなり凍えそうだったので、その影響で風邪を引いたんじゃないかなとも思うんだけど、タイミング的に考えると……1/17(土)に食べた生牡蠣のせいと言う可能性も……否定できなかったりするわけで……それでも好きだけど、ちょっと食べるタイミングを考えないといけないなあと思いましたです。連休前に体調を万全にして、とかじゃないとちょっと怖いな。いや、ノロにしては熱、吐き気、下痢どれも症状が軽くてあっさり治ったので、ただの風邪だろうなとは思っているのですけどね。 やれやれ。

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桜木花道な感じで

安西先生「自分一人が初心者という状況でそれでもなんとかしようと、いつも彼なりに必死に考えながらやってるんですよ・・・」 木暮先輩「上達が早いわけだ・・・!!」 (「スラムダンク」より引用)
自分が入ったとき、周りのどのバイトと比べても自分が一番劣っているのは明らかだったし、社員スタッフと比べたら雲泥の差があったのだけど、僕にはやりたいことがあるし、そこで「俺ってダメだな」なんて思っている余裕はなかった。むしろダメなのは当然なので自分が初心者で何も出来ないということを受け入れた上で、その上でそれでもなんとかしようと必死に考えて色々やってきた。思いついたこと気付いたことを片っ端からメモ取ったし、そのメモを元にまとめも作ったし、毎日の仕事のことを日記に書いたし、何度も読み返した。 結果として周りのバイトに比べてものすごく早いスピードで仕事を任せてもらえるようになり、それに合わせてシフトを入れてもらえるようになり、自分より1年とか2年とかキャリアが長い(18歳くらい年下の)先輩と同じくらいに働けるようになり。あんまり自分で自分を褒めるのもなと思いつつ、なかなか成長できないバイトやスタッフもいる中で自分がそうではなかったのは、一番最初に書いた「スラムダンク」桜木花道のこの精神だよなーと、ずっと思っています。 歳を取って新しい仕事を始めるってそういうことだよなあと思うし。本当は、仕事を始める年齢なんて関係なくて、誰だって必死に考えていくべきなんだろうけど、でも若い人と比べて思うのは、歳を取ってから新しいことを始めた僕らには基本的に時間がない。若い人たちと同じテンポで修行していたら、あっという間にじじいになっちゃう。無理は承知で何とかしないと行けなくて、自分の引き出しを全部開けつつ何が出来るか必死で考えてやっていかないと。そうしてやってようやく人並みになれると思うし。自分はまだ道半ば、っていうかまだ入口のところだけれど、今後も見失うことなく努力していかないと行けないよね、と思ってます。色々と大変だけど、そういうのすごく自分らしいし、辛くは無いな。うん。 そうそう、もう1個大事だったなあと思うのは、自分の引き出しの中身は使いながらも、過去の経験に拘泥しないこと。環境が変われば常識が変わるし、経験が無価値になることもよくある。それに気付かず「自分はこうしてました」に拘ってしまって、結果、学習の機会を逃してしまうってのを昔よく見た。受け入れるときは一旦全部受け入れていって、受け入れたものを理解出来るまでになった段階で、自分にとって必要なものだけを残すようにすると、学習の機会を逃しにくい。まだ理解が浅いのに受け入れ時点で情報を峻別するのは間違い。もちろん理解が浅いことを自覚しないことも間違い。 年を取るとどうしたって頭が固くなるし、自分の過去の成功体験を否定したくなくて「全部受け入れ」ってのが出来なくなるもの。自分ももう若くはなく、普通の会社だったら後輩に訳知り顔で説教しているような年齢だけど、いつまでも成長していこうと思ったらそういうのを外してものを見るようにしないとね。周りの人間に若い人が多いと言うこともあるけれど、いつもそういう自戒を意識しながら毎日過ごしています。意識しないと、つい油断しちゃうからなーおっさんってのは。ほんとに。

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今日の夢(2015/01/15)

最近なんか多いんだよなー。昔のこと思い出すのが。年かしら。大学の時の友達とか、当時付き合ってた彼女とか。だいたい、オールスターで出てきて何らかの催し物をしつつ大笑いしてるっていう夢になるんだけど(今日のもそう)、公平に考えて、常に楽しかったかと言われるとそうでもない。しんどいときもたくさんあったんだけど、今から考えるとそのしんどさも楽しさの一部だったよねとは思うわけで。そのしんどさだけをくよくよ考えてた自分は、小さかったなあと思ったりもする。笑い飛ばして前向いてやっていけたら、もう少し違う結果にもなったんじゃないのと思うんだけど、でもそれも若さってやつなんだろうな。 ああそれで思い出したことが1つあるんでそのうち書こう。

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今日の夢(2015/01/12)

河村か市場か宮地か宮本か、多分宮本かな、なんかすごい上手い期待したとおりの返しが返ってきて、それがツボに入って夢の中で大爆笑していて、たぶん夢の「外」でも大爆笑していて自分の笑い声で目が覚めてそんでそのまましばらく笑っていた。 残念ながら何がそんなにツボに入ったのかは忘れてしまったけど、気持ち良いくらいの大笑いだった。すっきり。

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ブログ記事のFacebookやTwitterへの投稿を「IFTTT」に統一 【今さらながら】

ifttt.jpg 以前は、ブログからTwitterへの投稿はMovableTypeのプラグイン「PostTweet」を、ブログからFacebookへのpostはFacebookアプリ「RSS Graffiti」を使っていました。特に不満は無かったのですが、それらをすべて1つでまかないかつ他にも色々出来る「IFTTT」というサービスが話題になっていたので、テストがてらそちらも並行して動かしていたのでした。 半年ほど動かしてみた結果、

  • 他の2つに比べて反映が少し遅い
という問題はあるものの、ブログ投稿と同時に反映させる「PostTweet」と比べるのは間違っているし、そもそも即投稿して欲しいわけでもないので、これで良いかなと。バージョン上げたら動かなくなるとか、設定が色々分散していてややこしいとか、そういう問題も「IFTTT」に統一することで解決出来そう。 便利な時代になったもんです。

ただしFacebook Pageへの投稿は除く

ただ仕様上、「IFTTT」の投稿先に設定できるFacebook pageが1つしか無いようなので、1つだけ「IFTTT」に移行しそれ以外はそのまま「RSS Graffiti」で投稿するように設定を残す。仕方ないか。

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「自由」と「寛容」

「管理されたくない」。 これは僕が根源的に持っている欲求であって、親切心だろうが老婆心だろうが、僕を管理しようとしてくる組織や個人とは基本的に相容れない。相手の考えが正しいかどうかとは無関係に、僕の行動や持ち物を勝手に何とかしようとしてくることは全く受け入れられない。これは僕が18歳で実家を出た大きな理由であるし、それからずっと一人暮らしだった理由でもある。僕は僕の生活を自分で管理したい。他人に迷惑を掛ける場合を除き、僕は僕が考えたように生きたい。 もちろん社会の一員であるから、全部俺の言うとおりにしろ、とまでは言うつもりはない。電車は降りる人を待ってから乗るし、道ばたにごみを捨てたりしないし、暗くなれば自転車のライトを付ける。社会のルールには不合理なこともあるけれど、それが誰かのためになっているのであれば喜んで守る。 でも「誰かの言う正しいこと」を無条件に受け入れるつもりは無く、その接点において交渉を設けて、「このラインだったら僕たちは上手くやっていけるよね」という条件を見出しそれを守ることを、代替的に「僕が考えたように生きる」ことにしている。だからそうして作ったラインを無造作に侵されることに対しては、その内容の是非とは無関係に、抵抗する。このラインは僕以外の人間が勝手に変更して良いことじゃない。 僕が何度も妥協して策定されたラインならなおさらだ。ラインを侵した上に再び是非論を投げかけるのなら、それは意見の押しつけに感じる。僕の妥協をより引き出そうとする「交渉テクニック」に映る。ライン策定の交渉は既に終わっているのだから、今、ラインを再設定する必要はない。 僕はこんなことを考えて、多分高校生くらいから、20年以上を過ごしてきた。この考え方や感じ方について議論があっても良いけれど、これは僕の根源的な欲求なので否定するつもりも変更するつもりも無いし、それを越えて管理しようとするのであればそれ以上その組織や個人と接点を持つことは出来ない。 特に個人に対しては、お互いに必要なことを十分話合った上で、「あなたが自由にやるのを許すから、僕も自由にやらせて欲しい」というのを基本的な条件にしてきた。そしてそれは「あなたが僕を管理するなら、僕もあなたを管理する」にはならない。僕は別に誰も管理したくない。自分が自由にやらせて貰っているなら、相手の行動に多少不合理なことがあっても目をつぶる。それが僕が考える「寛容」だし、僕が要求する「自由」だ。 もちろん相手のすることが本当に不合理だと思うこともある。「管理したい」と感じるような場面だ。その場合には、話し合いを持って、相手の感情と合理性のバランスを持って「ライン」とする。最終的にはルールの合理性よりも、相手の感情の方を少し優先する。それがどんなに優秀なビタミン源であっても、ブロッコリーが嫌いな人に無理に食べさせたりはしない。無理に食べさせるより他に、ビタミンを摂取する方法はいくらでもある。そしてもちろん、決まった以上、ラインはきちんと守る。それ以上何も言わない。 より広い意味で捉えれば僕だって無造作に管理はされている。国とかGoogleとか。でも自分があずかり知らぬところで管理されていても、それは別に気にならない。これはそういう道理の問題では無くて、僕が生きていく上でどう感じるか?と言う話だからだ。理屈じゃなく、感情の話だ。 僕にとって自分で自分のすることを決めるのが「自由」であり、人の「自由」を受け入れることが「寛容」だ。この2つは僕にとって最も基本的で、最も大事にしていることと言って良い。その2つを侵されることを僕は望まない。僕はこれまでも、これからも、この根源的な欲求、感情を譲ることは出来ないし、それに従って生きていく。

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