馬術。
別に先輩が後輩に向かって偉そうに何かを言う…と言うつもりは毛頭ない。
ということを前に一度メールに書いたら、
ある俺をほとんど敵視している後輩Nの返事に
『それはアンタが後輩に誇れるものが何もないからでしょ』とあって、
はっきり言うと ── そいつは分かってなかったが ── そのメールは
馬術部に所属しているすべての後輩から突きつけられたいわば公式のもの
だったので(少なくとも俺はそう感じた)俺は少なからずショックを受け、
わずかな人間関係を残して京都大学馬術部とは縁を切ることにした。
但し一つ言っておくと俺が後輩に何も残していないわけではない。
残念ながら、俺も残してしまっている、
1頭の馬の臆病さを最悪な状態からましな状態にまで持っていくことに成功したし、
ほとんど天賦の才並みに上手かった『作業』の腕によって、
様々な『功績』も残している、たしかに人間として誇れたもんではないが、
それは別に夜遊びしていたわけではなく僕個人の体質と人間性によるものだから
誰かにどうこう言われることでもない。
誰が一番悩んでいたか、わかるわけねぇよな。
とにかく、俺は京大馬術部に約4年の間所属していたらしい。
『馬術』というスポーツを『King of Sports』と呼ぶことがあるが、
哀しいことに馬が社会にほとんど関わっていない日本では、
その言い回しでさえもほとんど、『Kings’ Sports』と勘違いされている。
何故、スポーツの王様なのか?
馬術が他のスポーツと全く違っているのは、それをしている生活そのものがスポーツだという点だ。
想像するのは難しいかもしれないが、人が馬に乗るというのは、
それだけで、その馬に影響を与えることになる。
つまり、上手く乗れば馬は良くなり、下手に乗れば悪くなる(または良くならない)、そして、
その繰り返しで馬をよくしていくこと、それが調教であり、それがすなわち馬術だ。
スポーツという点で見るとき、
『幾つの障害を飛び越えることができたか』という点数のみに目を奪われがちだが、
本当は、それはただの“試験”にすぎず、
評価されているのは、それまでのその馬との関わり、その人の生活そのものだ。
例えばフットボールの練習をしていても、
ボールが蹴りやすくなるとか、自動的に上手く動くようになるなんてコトにはならない。
あってもスパイクが馴染むくらいだろう。
馬術は、およそ10年ほどの競技寿命を持つ馬を育てていくスポーツなのだ。
つまり、日本で定着しているイメージ、ちょっと乗りに行ってにこにこしながら華麗に運動し、
馬とのふれあいを楽しむ日曜の午後…
なんてのは言ってみれば『真似事』に過ぎない。
馬術というスポーツの一部をかじっているだけだ。
言うなら、その他のホントに大変なところや、だからこそ楽しいところを、
乗馬クラブにお金を払ってやって貰っている、またはやらせているというだけだ。
もちろん、それはそれで楽しいし、それだけでも十分羨ましい。
というよりも、汗と泥にまみれろと言うのは、やはり、普通できない。日本では。
でも、土日だけでは調教できないし、それで馬術と呼ぶのには抵抗がある。
あぁ…馬に乗りてぇなぁ…
馬術部はもう2度とゴメンだけどな。
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