「ランナーはナルシストでありストイック」(1)

runner ジョギング jogging
という話を友達からされて、心情的には理解出来るもののいまいち腑に落ちない部分があってなんとなく言葉にしてみるなど。印象ではそう見えるだろうなとは思いつつ、ランナー自身の意識としてはそうではないんだよなあという部分。




ナルシスト。

「ナルシスト」という単語が一般的に使われすぎてしまって、それをどう扱うか?という問題があります。一般的には、うぬぼれが強いだとか、自分大好きだとかといった言葉で表されることが多いですが、そういう表現に入っていない重要な要素が「ナルシスト」「ナルシシズム」にはあります。それは何かというと、根本的には他人がいて初めて存在しうる概念だということです。「他人に評価されている/評価されるであろう/評価されるべき」自分が好き、という意識です。世の中に自分ただ1人しかいなかったら、「ナルシシズム」は存在し得ません。一応、wikipediaから拾っておきます。


二次性のナルシシズムは病的な状態であって、思春期から成年にみられる、自己への陶酔と執着が他者の排除に至る思考パターンである。二次性ナルシシズムの特徴として、社会的地位や目標の達成により自分の満足と周囲の注目を得ようとすること、自慢、他人の感情に鈍感で感情移入が少ないこと、日常生活における自分の役割について過剰に他人に依存すること、が挙げられる。

ナルシシズム – Wikipedia


それを踏まえてランナーのことを考えると、人によっては人がたくさんいる中で颯爽と走ることに快感を覚える人もいるだろうとは思うのですけど、個人競技というのは基本的には自分との会話だと思うのです。ずっと「いけるか?」「もうだめか?」って会話し続け、その中で「いける!」→「いけた!」が経験として蓄積されていく。それは日常生活でもあるけどスポーツの中ではより高い頻度で起き、それを繰り返すことで自分に対する自信が深まっていく。そういう自信のある感じが時に「ナルシスト」的に見えるのかも知れない。

でも、なんというか、他人に評価してもらいたくて走ってる人がどれくらいいるだろうか?と思うのです。なぜ走るのですか?と聞かれたとき、「周りの人間にそんなに長い時間走れてすごいね、といわれたいからです」と答えることはないです。なぜって、そんな理由では続かないから。だって京都マラソンみたいに人に見られている舞台というのはとても華々しいけど、それ以外のトレーニングはひたすら地味なんですよ。僕だったらそれこそ道に誰もいないような深夜1時に20kmとか走ってるわけです。誰にも評価されません。でも別に苦痛じゃないんですよねえ……むしろ楽しくすらある。自分が気持ち良かったらそれでいいんですよ。いやほんとに。


ちなみに自信ある部分を持つことと、自分が好きかどうかは全然別の話かなと思います。自分の中で好きではない部分があるから改善を試みるんだろうし、上手く行かないときは自分が嫌いですよね。「改善の余地はたくさんあるけれど、今の自分の実力を出せば対応出来る」スポーツやるときには、皆そういう考え方をしてるんじゃなかろうか。



長くなったので、この話続きます。