非公開性

「その空間は、とても不快だった。」


という書き出しから始まる文章を、とあるサービスの誰にも知られていないアカウントで、しかも有料で投稿した。僕にとっては割と大きなストレスであり、その集団のもつ同調圧力と鈍感さに嫌悪感を強く感じる出来事だったけれど、まあね、口外出来ない。ましてや、ブログになんて書けない。その集団を本気で糾弾したければブログに書くという選択肢もあるけれど、今は別に良いかなと。

ただ、テキストに起こしてすこしすっきりしたものの、体の内側にべっとりと貼り付いた「不快感」は拭いようがない。油断すると今でもここで書いてしまいそうなことだけれど、あれだけ人がいて疑問を感じていたのが自分だけだったとするなら、それはとっても悲しいけれど、でもそんなもんかもね。普通はそんなもんなんでしょう。でも、僕は、許容出来ない。

この思いをとどめるのは難しいけれど、非公開であれば、とどめなくていい。誰にも見られたくないなら日記でいいじゃないか、と思うけれど、「非公開」とは公開しないこと。公開出来るけれど、公開しないこと。日記のように始めから公開を想定していない事は、この場合の「非公開」ではない。いずれ、公開したいけれど、今ではない。5年後か、10年後か。


別に機嫌が悪いわけではないけれど、このことでとてもがっかりしている。

そして多分そのこともまた、誰にもわかってもらえないだろう。


だから、今は、公開しない。