『本当のあなた』について書いてみる:“真実の鏡占い”

友達がmixiの日記でこんなのをやってたのでやってみた…が。

無料占い・おまじないの雑誌マイバースデイ(MyBirthday)

なーんかなー
どうも言葉遣いが引っかかるんだよなー


とりあえず、結果を見てみると。

「人への配慮はあなたを鈍らせます」

本当のあなたは、出たとこ勝負です。
本当のあなたは、人嫌いです。
本当のあなたは、永遠の愛を信じません。
本当のあなたは、本命以外の異性に興味があります。
本当のあなたは、アブノーマルなセックスにひかれます。
本当のあなたは、説明が苦手です。
本当のあなたは、空腹や睡魔に耐えられません。
本当のあなたは、欲しくても欲しくないフリをします。
本当のあなたは、人生の先延ばしが得意です。
本当のあなたは、形式にこだわりません。
本当のあなたは、恋をすると、ハイになります。
本当のあなたは、遠慮を忘れます。
本当のあなたは、乱雑な空間のほうが落ち着きます。
本当のあなたは、未完成を愛します。
本当のあなたは、モノ好きです。
本当のあなたは、あればあるだけ、お金を使ってしまいます。
本当のあなたは、すぐにだらけます。
本当のあなたは、口約束は守らなくていいと思っています。
本当のあなたは、自分は運がいいと信じています。
本当のあなたは、ありふれた幸せに満足しません。

真実の鏡が映し出すのは、上の空なあなたの姿です。心ここにあらず、自由な別天地、まだ見ぬ世界のことばかり考えていそう。オフィスや学校、家庭の中に閉じ込められている現実とうまく折り合うことができません。集団、そして、日常生活の中に埋没することを恐れ、周囲の期待をわざとはぐらかすこともよくあるのでは? 身近な人々の失意のため息を聞くたびに、なぜか安堵を覚える毎日のはず。あなたはまだ、何も始めたくなのです。つまり、可能性の扉の前で、これからの起こることをあれこれ空想していたいのでしょう。けれど、時は無常にも過ぎ去っていきます。モラトリアムを引き伸ばすうちに、あなたのために用意された扉が、他の誰かに開けられてしまうかもしれません。横取りされた後で、悔やんでも取り返しはつかないもの。いつかやるつもりなら、いますぐ始めなくては! 仮に誰かの期待を裏切ったとしても、正しい道ならいずれ和解できるはずです。


妙に言葉が力強くて困るな(苦笑)


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『本当のあなた』と言う言葉の持つ、『嘘』を理解した上でなら、
この言葉は信じられるような気もする。

『本当のあなた』の存在を肯定することは、
『本当ではないあなた』の存在をも肯定することと同義だ。
同時に、日々、『本当ではないあなた』として生きていることを認めていることにもなる。

仮に、『本当のあなた』が自らの深い、表出しない願望としてあるとしよう。
しかし今は、『本当ではないあなた』として生きている。
少なくとも、自ら選択し、そのように生きようとしている。
その意志は、『本当のあなた』と『本当ではないあなた』のどちらに属すのか?

思う前に既に意識があるとすることが、現象学の基礎だが、
意識作用としての『本当ではないあなた』は、
意識に『本当ではないあなた』も含むことを示唆している。

このことは、『本当のあなた』が、本当であるという仮定と矛盾している。
いや、本当であるという仮定とは矛盾していないが、
『本当のあなた』しか、あなたの中にはないという、発展とは矛盾している。

つまり、『あなた』のなかには、
意識作用としての『本当のあなた』『本当ではないあなた』その双方が存在していて、
意識はつまるとろ、それらを生み出すものたちが混在しているということになる。

このことは、結局のところ、
『本当である』か、『本当でない』かを指摘する本来の意図とはかけ離れていて、
ただ単に、そういう『あなた』も存在することを、示唆しているに過ぎない。

誰しも、自分の主観と、客観とでは、違う自分を持っているし、
ある他人の主観を通した自分と、同じ人間の客観を通した自分もまた違う。
その差異は、結局のところ、その対象のどこに焦点を置くか、そのことだけを根拠としていて、
どちらが、本当と言うことはない。
前提に本当がない以上(主観と客観の間で“本当さ”比べるのはナンセンスだ)、
その示唆もまた、本当という物差しで比べるのは、
ただ、時間を、分度器で測るようなものだ。

この言説を目にして、『本当のあなた』を手に入れたように思う人間の中の、
たった一つの本当のことは、
あなたは、『本当の』という形容詞に、判断をゆだねやすい、ということ、
ただそれだけだ。


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そんなようなことをね、思ったのですね。
(哲学的なところはかなり知ったかですが、勉強中なのでご勘弁を)


昔は(今も、形の上では)、

『本当は俺、こんななんだぜ、そんなんじゃないんだ』
『これはいわば、建前って言うか、鎧みたいなもんだよ』

と言ってたんですけどね…最近はちょっとそれも変わってきました。


結局のところ、建前で綺麗な自分を見せることも、自分の一つなんだよね、と言うね。
人と会って無理に愛想良くしてる人にとって、
愛想の良い自分は確かに違和感を感じる存在かもしれないけど、
愛想良い自分として接したいという自分は、確かに自分の中にある意識であるわけで。
そこには、嘘も本当もない。

そこをも否定して、『本当の』という姿を導入することは…
結局は、表層の部分を二元的に選択しているという点で、
つまり、自分は何を感じて行動してるのかを見ようとしない点で、
ま、おんなじことだってコトなんですよね。

だから、安易に、本当とか、偽りとか言うのはねー
話としてはエキセントリックで面白いけど、
それを素直に納得する人は(まーこの占いに納得する人がいるか知らんけどね)、
どうもね。
見えてないから、本当を求めるんだけど、結局見えてない、って感じますね。

結局、自分の感覚は自分で知るしかないし、
他者の言葉で、疑似感覚を得て、それを感覚と錯覚することは、
んー、その行動そのものが、自分の感覚が分からない原因なんじゃないかとね。

思いますよ。うん。