物語は、時に、突然の終わりを迎える。
ただし、もしこれが小説であったのなら、という話だ。
現実世界では、ページが尽きることはない。
たとえ終わりを錯覚したとしても、時は非情なまでに淡々と流れていく。
全ての終わり、そして全ての始まり。
小説における終わりとはすなわち、状況の停止、だ。
小説とは、文字に沿って状況を変化させていくことに意義があり、
その変化が止まる地点が終わり、だ。
ところが我々の世界には、変化の止まる地点がない。
たとえ1人が人生を全うし命を落としたとしても、
その人を含んでいた状況の変化が止まるわけではない。
にもかかわらず、僕らは、時折、『終わり』を感じる。
在りし日の情景を思い浮かべ、現在の状況までの変化を感じ、時に悔い、
その状況を変化させることはもう出来ない、と、錯覚する。
だが、冷凍庫に放り込んだ魚でさえ徐々に痛むように、
変化しない状況など、ない。
僕らの世界では、過去に起きたことでさえ、変化する。
過去に起きたことは全て確定したもの?それも、終わりの錯覚だ。
変化しないものは過去ではない。
物語は、突然の盛り上がりを見せ、また同じように突然の終わりを迎えた。
僕自身にはとても追いつく暇はなく、
目で追っている間に、いつの間にか、状況は変化を拒否していた。
僕の目の前を、猛スピードで通過していったそれは、結局コントロールが効かなくなり、
前方の壁に激しく衝突した、のだ。
ただ、先に述べたように、我々の世界に終わりはない。
たとえ、人類が滅びようとも、それは終わりなどではなく、ただの錯覚だ。
時は流れていくし、状況の変化には何の変わりもない。
僕は変わらずに煙草を吸うし、
煙を吐きながら、今もここに立っている。
全ての終わり、そして始まり。
状況は、今も変化し続けている。
変化を拒否しているのは、自分自身なのだが。