文章の書き方。

僕はプロではないし、自分の好きなように文章を書いている人間なので、 実際にテーマや、期限や文字数が決められた文章を書くのは難しいかもしれない。 まぁでもしかし、僕にも僕なりに文章を書く流れ、というヤツがある。 まず、これは文章に書かなくても同じことだけれども、 ある一つのフレーズが頭に思い浮かぶことが多い。 それは具体的でも、抽象的でも、 自明の理でも、明らかに間違っていることでも良いのだけど、 とにかくなんらかの結論や、仮定が頭に浮かぶ。 例えば、

69tracksの2人のDJは、イベント開始当初から音楽性の違いは顕著だったが、その間に共鳴する物があった
なんていうフレーズが浮かんだとする。 この時点で、それが本当かどうかはわからない。 何となく思ったことであって、調べてみたら全く違ったなんてこともある。 これを呆然と眺めてみると、頭の中にあった情報〔経験や知識〕が、 何となくその周りに集まってくる。 初期の頃掛けてた音楽ってどんなのだっけ… ああ、一人がNick Lowe、もう一人がGreen Dayか… 確かに二人のセンスが完全に一致しているというわけでは無いなぁ。 だからといって、違和感を感じなかったのは何でだろう? やっぱり、精神性的なものなのか。名前を付けるなら、『ロック』というような。
いや、でも、あの曲に関しては二人で取り合いになってたし もしかしたらそんなことはないかもしれんな… お互い、接している、重ね合っている部分は確かにあったんだ、 必ずしも、一致していなかったわけでもないか…
何て事を考えていくと、 徐々に、頭の中に、自分が書こうとしていることのイメージができあがってくる。 このことを称して、 『何かの周りをぐるぐると回りながら、考えを構築する』 と僕は表現しているのだけど、 結局、いろんな方向から、いろんな見方で物事を見てみて、 それがどんな形をしているかをなるべく正確に、頭の中へ移築する。 もちろん、それが文章となって出てくるのはまた違う過程なのだけど、 意識的にしろ、無意識的にしろ、 まず頭の中になにがしかがないと、何も出ては来ない。 で、なんらかのイメージができあがったら、 今度はそれを描写していく。
そうか、ロックとはつまり、人と違う何かを求めること、 自分は自分であり、自分の姿勢を追い求めること、 でもその前にエンターテイメントが無くちゃいけない、 商業的という意味ではなく、すべてのベースにあるものでもある、 人と違う物を求めているようで、結局は流れに乗ろうとしてしまった姿が 一方の道をはずした姿だったのかもしれない、
…表現が不適切だと思えば削除もする、 でも、多くの場合、前のセンテンスに刺激されて次のセンテンスが生まれる。 もし次に、
いやしかし、同じ音楽を長い間掛けることはロックだろうか、 もしそれが自分自身や、自分を取り巻く他の人間と同化してしまったら それは人と違う自分だけの自分を求めることにはならないだろう、 ん、でも、同じ曲を何年も演奏し続けるロック・バンドは? そのことだけで彼らがロックではない、といえるか? 彼らは誇りを持ってその曲を演奏し、それが自分たちであること、であり、 それと同時に、常に新しいことにも挑戦している…
という文章が続いていれば、 どちらかだけを削除するのは難しい。 二つの文章はちょうど対の形になっていて、二つの文章はある程度、 極端に書かれている。 最終的には、この二つの範囲内のどこかに結論を求める文章を書く。 結局文章を書くという作業は、大方、イメージの作業だ。 だから文章が出てこないのは、腕が動かないからではない、 そうではなくて、まとまっていない、 少し非現実的な言い方をすれば、『時期が来ていない』のだ。 そのイメージがまとまりさえすれば、 それが何であるかを説明するのは誰にだって出来る。 目の前に鶏がいたとして、その鶏の様子を感動的に描写するのは難しいが、 その鶏の様子を列挙するのはそうでもない。 『白い羽根で、赤いとさかで…』 文章を書くときもそれと同じ。 極力、過程をシンプルにすること、それが重要だ。 論理の展開?そんな物は書くときには考える必要はない。 話す言葉とは違って、後で何度でも読み返せるのだから。 イメージが揺れない限り、結論も揺れないだろう。 ま、そうは言ってもね、そう簡単にイメージは作り上げられないけれどね。 いかに素早くイメージを熟成させられるか、 それは、経験と運、としか言いようがないね。

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首都

とある流れで調べていったら、 『東京を日本の首都とする法的根拠はない』とする話にぶつかって驚いた。 ことの真偽は定かではないが、 Wikipediaには以下のような記述がある。

首都についての議論 しかし東京を首都とする法的根拠はない。そのため学問的には、桓武天皇の平安遷都の法的根拠の有効性から、今なお京都を首都とする説、また東京(東都)と京都の二つが首都であるとする説などが存在する。(後略)
現状の問題 日本には首都を直接定める法律はなく、かつては首都建設法(昭和25年法律第219号)に「東京都を新しく我が平和国家の首都として」という記述があったが、首都圏整備法の施行により首都建設法は廃止され、現在では首都圏整備法によって東京が首都であるということが間接的に示されているのみである(規定されているのは「首都圏」の範囲であって、「首都」そのものの定義は存在しない)。(後略)
(共に『首都 – Wikipedia』より抜粋) もちろん、厳密に検討すれば、という意味であって、 実質的に首都と言えば、東京のことであり、それに反対する人は多くないだろう。 いくら首都は京都だと主張したところで、 その首都という呼称にはなんの意味もない。 ただ、桓武天皇の平安遷都に法的根拠がある、と明記されているのも驚くし、 むしろ今さら東京を首都と規定する法案を作成(または改訂)する必要も… 他の重要案件の審議時間を削ることを考えると、無駄っぽい。 しかしまぁ、事実として、そういう説もある、っていうのは、 妙に意表をつかれて面白かった。 参考:

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ホワイトバンド。 自分の回りでもつけている人が何人かいるので、気にはなっていたわけなんだが… 自分としては、皆がこぞって薦めるような物はつけたくない。 俳優もアスリートも歌舞伎役者も、 なぜかみんな嬉々として付けているわけだけど…必要なんでしょうかね、アレ。 僕もあんまりよく知らなかったのでまとめついでに書いておくと、 ホワイトバンドとは、世界から貧困をなくすという意思表示として、 腕に巻く白いもののこと。 日本では、『オフィシャル』として、シリコン製の物が売られているが、 意思を表示するだけなら、白い布などでも良い。 オフィシャルのものは、300円で、利益はNGOの活動費として使われる。 (募金ではない、サイトにも明記されている) ほっとけない 世界のまずしさ ネット上では、ホワイトバンドに対する疑念の声や、 募金詐欺に近いのではないかという声も挙がっているけれども、 まぁ基本的に日本では、ボランティア活動やNGOに対する知識や、 認識が不足しているので、ある程度の批判は仕方あるまい。 だが、ホワイトバンドの売り方として、これを買うことが重要、と 思わせているのは少々問題がある気がする。 理念を読んだ限りでは、重要なのは意思表示であり、 巻くのはなんだって良いわけだし、 儲けるための活動だ、なんて言われてもしょうがないかなぁ。 日本での活動経緯を読んでみれば、マネージメント会社として有名な、 株式会社サニーサイドアップが絡んでることが分かる。 それを聞けば、多くの有名人が参加していることもわかる。 なんだかなぁ。 人道活動の、民衆への入り方として、 ファッション性などを訴えて、道徳以外の付加価値と交換で募金をしてもらう、 そういう入り方もアリだとは思う。 それを買う人間が意識しようがしまいが、募金が増えて、 困っている人を助けることが第一義なのだから。 しかしなぁ、このホワイトバンドってヤツはどうなんだろう。 大体が募金じゃないから、買ったって助けられない。 どうしても…大事なのは意思表示、 でも、できるだけ、日本オフィシャルのを買ってね、みたいな… 意思表示が大事なら、 日本の有名人が白い布を付けたCMや画像があっても良いはずだろ? 歌舞伎俳優なら手ぬぐいの方が似合うかもしれないし、 サッカー選手ならキャプテンマークを白くする活動だってあって良いはずだ、 300円じゃなくて、少し高くても白い腕時計(SWATCHとか)でも可のはず、 それならファッションモデルも付けられる、 みんながみんな、同じ腕輪を手にはめていることは、 何が大事なのかをぼやけさせている、と僕は感じる。

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在宅勤務の可能性

69tracksもなくなるし、友達も東京や海外へ行ってしまったし、 今の勤務状況を維持することに、今現在はあんまり執着を感じない。 うーん、半年前は、この倍くらいは執着があったんだけどね。 今は、別に東京に行ってみても良いかなぁ、なんて思ってる。 もちろん、京都にはもう帰らないという前提で。 少し、色んなことに飽き気味で環境を変えたい、というのもあるしな。 京都を離れるかどうかはともかくとして、 転職するかどうかも別に決めていないけど、 在宅勤務って出来ないのかなーと、考えたことがあるし、今でも少し思う。 ただ…先日、トラブルで自宅に一度帰宅して作業したのだけど、 色んな意味でプレッシャーというか、ストレスというか、 そんなものも感じて、自分にとっては、ベストというわけでもないな、と思った。 そういうわけで、在宅勤務に関しては、 そこまで求めようという気もなくなったんだけど、 今朝のITMediaのニュースでこんなのがあった。

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言葉で説明できる人生なんて小さいか?

『言葉で説明できる人生なんて小さいですもんね』 年下の友達としゃべっているときに、彼がそんなことを口にした。 昔の僕だったら、全くその通り、と頷いてたかもしれない、 でもその言葉を聞いて、今僕が感じることはそれほど単純じゃなかった。 この言葉がどんな文脈で出てきたかって言うと、 2人で人生について話していて、 僕が上手く言葉で説明できなくて悩んでいるときに彼が言ったんだが、 そこで僕はこう返した、 『それはそうだけど、相手に伝えるには言葉じゃないといけないし、 むしろ、言葉で説明できることと、その対象が大きいか小さいかは関係ない、 大事なのは、その言葉を受け取って、対象を想像して共有することなんだ、』 そんなに大まじめに切り返すようなことでもなかったけど、 シリアスに話し込んでたわけでもないし、 まぁでも酔ってたんで、何となく口に出てきた。 確かに、言葉で説明するってことが、対象の価値を貶める場合もある。 下手な料理レポーターの、『美味しいですねぇ?』が良い例だけど、 何が美味しいのか、っつーかどうなのか、 っていう部分が全くこっちに伝わってこないのに、 美味いか不味いか、という部分でどうしても嘘臭く見えてしまう。 また、言葉でまとめるために、見栄えの良い部分だけを見繕って説明するときもある、 意図とかバックグラウンドとか、いろいろ盛り込まなくちゃいけないことはあっても、 結局言葉で説明するときには、上っ面だけになったりする。 だから、『大事なことは言葉では説明できない』、ってのも事実ではあると思う。 あー、むしろ、『言葉で説明できることが良いとは限らない』かな。 でも、相手に伝えなければいけないことがあるとき、 相手に伝えたい何かがあるとき、 それらを確実に伝えるには、僕らは言葉に頼るしかない。 問題の大きい小さいなんてことはそこでは関係なくて、 言葉の意味そのものだけでは、すべては語り尽くせないとしても それを受け取った人がプラスαのフィーリングを感じて、言葉を補い、 物事を感覚として共有できるのがベスト、だと僕は思う。 要するに、言葉で説明できないなんてことは当たり前のことで、 むしろそれを何とかするために僕らは会話をするわけで。 『言えば分かる』なんて思いこむのも良くないけど、 出来やしないって諦めるのもなんか違うかな、と。 伝わらないことを何とか伝えようとして、 生きていくもんなのだよ、人間は。

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喫煙に対するスタンス。

今、手元にある、『SevenStars MENTHOL LIGHTS』にはこう書いてある。

喫煙は、あなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます。
その他、商品によって、 脳梗塞との関係や、肺ガンとの関係を示すものもある。 これらは、2005年2月27日に発効した、 『たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約』に基づくもので、 (→ 外務省プレスリリース) 警告文に関しては、その条約の中で、
たばこの包装及びラベルについて、消費者に誤解を与えるおそれのある形容的表示等を用いることによってたばこ製品の販売を促進しないことを確保し、主要な表示面の30%以上を健康警告表示に充てる。
と定められている。 まぁ正直に言うと、この警告文のおかげでデザインが台無しなんだが、 (出来ることなら、片面全部を警告文にし、もう片面は警告文無し、とかにしてもらいたい) まぁ多分、それも狙いの内なのでしかたあるまい。 こうした警告文の影響かどうかは分からないが、 周りでも、タバコを止める人間がちらほら出てきた。 僕自身は、吸うも止めるも個人の問題だと思うから、どちらでもかまわないのだけど、 タバコを止める人間というのは、どうしてあんなにうっとおしいのか、 たまに疑問に思うことがある。 個人の意志で吸い、個人の意志で止めるわけだから、黙っていればいいと思うのだが、 多くの場合、とってつけたように、健康へのリスクや、財政的な負担を主張し始める。 要するに…止めた自分を自慢したいのと、 本当に止められるか不安なので、主張したいのと、 その両方なのだと思うのだけれど…うっとおしい。 褒められるために止めるんであれば、吸うこととあんまりかわらんのに。 僕自身は、そのうち止めるつもりでいる。 喫煙が体に良くないのは明らかだし、 内蔵や、アレルギーやその他の健康的に見ても僕には多分、良くない。 ただ、今すぐに止めればいいじゃないか、という気分にもならない。 それまでスパスパ、人前でも吸っていたのに、 ある日突然、大した理由(商品に臭いがつくとか(笑))もないのに、 禁煙の正当性を主張する人間にはなりたくない。 そういう、アレルギー反応的な反射活動は、 非常に薄っぺらいだけでなく、かっこわるい、と思う。 かっこいいと思ってタバコを吸っている行為自体が、 かっこわるいのは間違いないが、 だからといって、いきなり翻すのも別にかっこいいとも思えないし。 なるべく、自然な形で生きていきたいと思う。 おそらくそのうち、自然な形で、止めようかなと思えるかも知れないし、 もしそう思わなければ、僕はそれはそれで良い。 自分の、決めたことだから。

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仕事のポリシー。

あくまで暫定的ではあるけれども(修羅場になったらそれどころではないし)、 一応、自分なりに、2つの『ルール』を作って仕事をしている。 守らなくても大して変わりはしないが、 それに従う方がベターだ、と感じるようになったからだ。 ひとつは、仕事に対し、安易に『出来ない』と即答しない。 企画やデザインていうのは、大体、やってみないとどうなるかわからない。 見た目が簡単そうで、実は気を遣うことが多くて複雑、 そういう作業もある一方で、意外にすんなり片付いてしまうものもある。 完璧ではなくても、とりあえずすんなり片付ける方法があるものもある。 だから、何かを持ち込まれたとき、 忙しさに苛ついて『出来ません』と言ってしまわないように、 (なるべく)気をつけている。 と、同時に、『出来ます』と即答することも避けるようにしている。 全てのことに対して、『なんでもOK!』と言えれば格好は良いけれども、 一つの作業を入れれば、他が圧迫されるのは当然で、 そしてそれがタチの悪いものだったら、大変なことになる。 それならば、少し時間を割いて、掛かる時間や労力を見極め、 それがプライオリティと比べて割が合うかどうかを見て、返答する方が効率的だ。 まぁそれでも、ノリで引き受けて苦労することもたくさんあるけれども。 もうひとつは、まぁ現実的ではないかもしれないが、 残業をしない、ということ。 問題がなければ、定時から1時間以内には帰る。 というのも、ことさらにこれを主張するのは、ひとえに僕の作業内容の特徴によると思う。 僕の仕事は、多くの場合、小さな作業の集合、になっている。 ひとつひとつは毎回違うので、毎日のルーチン的な作業はない。 また、一日中、一つのプロジェクトに掛かりっきりというのもまず無い。 ベースに、中期的には完成すべきという大きめのプロジェクトがあり、 その上に、日々更新すべき様々な作業が乗っている、という感じ。 僕は、その中で、頭を切り換えつつ、色んな作業をしているんだが、 そのスイッチングの回数にも限度というものがあって、 疲れてくると、なかなか上手く切り替えられなくなる。 元気であれば、二つ以上のことを同時進行というのも可能なのだけど、 疲れてくると、一つのことしか出来ず、且つ能率も落ちる。 残業すれば、明日に回すはずだった仕事を片付けられて、 多少は楽になるけれども、その分、明日のスタート時点でのエネルギーが減る。 結局…あんまり変わらないんだよね、全体としては。 残業をしまくって、必死になって作業を片付けてた時期もあったけれども、 疲れて画一的になってしまったり、後でやり直しが必要だったり、 なんかそう言うことにぶち当たって、 あー、僕の場合は、残業は合わないな、と実感した。 将来的にもずっと守り続けるかどうかは分からないが、 まぁ、とりあえずこのところは、こんな感じで動いてる。 そう、悪くない。

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僕の不得手はどこから来るのだろう?

自分ではちっともデザイナーだとは思わない。(*1) その思いはどの辺から来るのだろうか、と考えると、 結局、僕のデザインというのは、WEB的制約から脱出できていない、 そう思う場面が、特に他人のデザインを見ると、多々あるからだ。 その一例として、今日、パラパラと専門雑誌を眺めていて感じたのは、 僕のデザインは、リアル素材との関係性が希薄なんだ、ということ。 画像にせよ、線引きにせよ、これはこれ、あれはあれ、みたいな、 『わかりやすさ』が先行しすぎているような。 実際のデザインってヤツは、テキストもデザインの一部なわけだ。 でも、WEBってのはそうではなく、それも特に更新頻度が高いコラム系のページでは、 テキストに対するデザインの希薄化が顕著だ。 画像と枠で作ったテンプレートの中にテキストを“流し込む”、 (僕はこの単語があんまり好きではない、愛情を全く感じない単語だからだ) テキストを置いて、画像を挿入する、 WEBデザインてのは基本的にはそういう特徴を持っている。 だからといって、多くのデザイナーの仕事がそうかというと、 そうではない、そういう凝り固まった常識に対して、 如何に上手く常識を残しつつ(常識をすべて覆すのはプロの仕事ではない*2) その常識の無い価値観を作り出すか、というところが大事なんだが、 どうもあんまり最近そういう大胆なことをやっていない。 画像からの視点で言えば、どうも素材を、挿絵程度にしか扱えていない。 たぶん、ブログの影響だと思う。 ブログにおいて画像ってのは、まさしく挿絵でしかない。 そこにおける造形がデザインを形作ることはないし、 もし形作ったとしても、そのエントリ限りのことだ。 そうした作業を毎日繰り返していれば、 画像が、枠に収まった挿絵だとしか思えなくなっても不思議ではない。 また、画像を、四角いモノ、と考えることもやはり同じくWEB病だろう。 確かに、プログラム的なルールで言えば、画像は四角いものだし、 領域はすべて、縦線または横線で区切られる。 でも、それに忠実に従っていくと、意図しない空白を多く生み出してしまうことになる。 デザインなんてあったもんじゃない。 まぁそんなわけで、(今の)自分には出来ないなぁ、と思うデザインに、 最近よく出くわすわけですよ。 どうしても、自由に線を引っ張るようなデザインが出来ない。 どっちかって言うと、ありがちなテンプレートっぽいデザインばかりで… 正確に言えば、多分、『不得手』ではないんだろうけれども、 なかなか、チャレンジしてみる機会もなくて。うーむ。 既にblogと化したNOBODY:PLACEをリニューアルするのは骨が折れるけど、 何か、デザインすることを目的としたサイトでも作ってみようかな。 ああ、よくよく考えれば、SWITCH-OVER.INFOなんて、 そういう意図で作ったようなものか。 少し作ってみようかな。

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アカデミックな人々。

先日、後輩何人か(大学院生)と飲む機会があった。 そのとき、何か違和感を感じたんだが、それが何だったのか、あんまりよく分からなかった。 もちろん、僕自身に、アカデミックなことに対して、 なんらかのコンプレックスがあるだろう、 ということは申し上げておかなくてはいけないが、それにしても何かおかしい?? いろいろ考えてみるに、 どうも、大学院へ進んだ人の半分くらいはそういう病気にかかるような気がするね。 なんだろうな、僕自身も結構そういう人間だったけれども、 大学入るまで(大学入ってからも)、 社会というものとの接点が全くない、そういう人間が結構多いわけですよ。 バイトすらしたこと無いとか、小学生の頃から受験勉強ばっかりしてたとか。 (そうじゃないヤツもたくさんいるけど) まぁいずれ就職して、社会を知ることになるんだが、 そのときのショックといったらないよな。 23-25くらいって、人生の先行き不安とか、 まぁなんかいろいろ不安を抱える時期ではあるんだけれども、 そういうのって結局、社会と自分という関係を始めて持つことによるショックかな、なんて。 でさ、そう言うタイプの人間が、研究者を目指して大学院に進んだとするよ、 大学院てのは…学生に比べると圧倒的に社会に近い、 教授、助教授の政治的話やら、同分野他大学の評価や噂、 いつまでもポスドクな先輩、理不尽な予算配分やら、 成果と評価を求められなかなか応えられない自分…。 まぁ、社会の濃度としては、普通の社会に比べれば全く薄くて 正直言って、コーヒーのアメリカンみたいな感じだと思うんだが、 それでもそれまでに比べたら多少は苦い、 そういう時ってさ…鳥の雛の刷り込みじゃないけど、 やっぱり、なんらかの価値観にはまりやすい時期だと思うのね。 選択肢もないし、他の選択肢があるとも思ってないから、 目の前のものがベスト且つ唯一だ、と。 その価値観自体は多種多様だろうし、 良いとも悪いとも言い難いけれども、どうだろうね? 一番の問題は…やっぱり、自分以外の人間に気が回りにくくなることかな。 もちろん、大学に入ってきたばかりの頃から知ってるわけだが、 昔に比べると、他人とコミュニケートする能力が若干、減退しているような。 自分自身の考え方に自信を持つのは大事なことだけれども、 自分自身の考え方を自分のものにするためには、 実は他の考え方を知る必要があるんだと思うんだよね、 そういう過程を経ない限りは、 どっかから借りてきたような考え方の寄せ集め、でしかなくて、薄っぺらい。 教授の受け売りとかね。 話の内容は素晴らしいけど、どうも何か違う。 彼らは、研究が出来ればそれで良いのだろうから、 僕がぐだぐだ言うことではないんだけれども、 なんだかなぁ…何か見失ってないかい? あんまり、ステレオタイプをすり込むのは良くないなぁ、とは思うんだけれども、 アカデミックな評価と噂で汲々としている人たちが、 もの凄く矮小で滑稽に見えたので、書いてみた。 昔は自分も所属したいと思っていたはずなのに、今はあんまり好きになれないな…

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NOBODY:PLACE QUALITY.

このサイトは、一体全体なんなのか? 僕という人間を知らない人や、 検索エンジンから飛んできた人にとっては、 そのエントリの内容以外に分かることは、多分少ないと思う。 こと、このサイトのエントリの流れに関してだけは、 僕は空気を読まない。 僕はエンターテイナーとしてこのサイトを続けているわけではないし、 目新しい情報や、役に立つテクニック、面白い話を、 書き続けていくためにこのサイトを続けているワケじゃない、 そうじゃなくて、 僕が今感じていることを、ここに書いている、 まぁね、読んだ文章で僕自身が判断されるのは仕方のないことなのだけれども、 でも誰だって、色んな部分を持っているわけさ。 中絶禁止運動に積極的に参加している人が、 週末サッカー場で、ビール片手にはしゃいでいたりするわけさ。 (もちろん、フィクションだが) 人の中には、色んな部分があるわけで、 そういう人が作るサイトだって、色んな部分があって当然なのさ。 そういうワケなので、 最近ちょっと面白い方向で受けているから、シリアスな話をするのは止めておこう、 なんてことを思ったりしない、 何しろ、例えば昨日のエントリのようなことは、 核の部分はずっと前からあり、 書こうとしたのも結構前で、 実際に出だしだけ書いて下書きに入れられたのは1週間も前で、 でも、昨日、ああ、これを書けるのは多分今しかない、 そう思ってしまったから、あのタイミングだったわけで。 あれだけポーンと書いて、 その後更新していなかったから、 友達によっては、 『ん?へこんでる?』 と思ってくれているのかもしれないのだけど、 まぁ実際は、書けた瞬間がたまたま昨日だっただけで、 書いた時点で半分がた過去のことで、 僕自身は、非常にスッキリしてる。 だから、そういうことくらいは表明しておこうと、 いくつか用意しておいたネタを、今日の仕事の休憩中にでもし上げてアップして、 ご機嫌でも伺おうか、と思っていたのだけど、

仕事が忙しすぎた!(泣)
日記も書こうと思ってたのにねぇ。 やー参ったね。 まぁでも今日、休憩も満足にとらずに 集中して取り組んだ結果、その作業は終わりましたよ。 明日は、 水曜日のADAMの選曲でも念頭に置きながら、 (7/6はメトロでADAMだよ。良かった来てね。) 少しは余裕を持って仕事できるかなと。 まぁそんな感じで、飯でも食おうかな。 相変わらず外は雨が降り続いてるけど、 幸運にも僕の部屋には屋根が付いてるので、全然平気。 あ、カレー食いたいなぁ… 激辛・タイカレー。 フレスコに買い出しに行こうかな。 (相変わらず外は雨が降り続いているけど)

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