『自分は自分』という考え方について。
僕の文章を読み返すと(以前言ったとおり僕はかなりの愛読者だ)、『自分は自分』とか、 『やっぱり俺は変わらない』とかそういう表現がよく出てくる。 この表現、実は一般的にとらえられる感じと、僕の中で持ってる印象とが、微妙に違う。 大げさな言い方をすれば、“何をもって『自分』とするか”という部分で、 僕と自分以外の人との捉え方にギャップを感じる、 それはすなわち、誤解される言葉遣いだということ。 例えば、僕が子供の頃、椎茸を嫌いだったとする。 大人になって、改めて食べてみたけど、やっぱり好きになれない、俺は俺でかわらねぇなぁ…なんてことを、 『やっぱり…』という言葉は言ってるわけではないので。 すごくわかりにくくて恐縮なんだけど、人間の中にある考え、好き嫌いであったり、道徳観、人生観であったり、 いやもちろん女の好みだったり、好きなセックスだったり…というのは、ある意味で、『データ』に過ぎない、と思う。 そういうデータは、その人自身を表してもいるけど、でもその人自身ではない。 僕が思うその人自身てのは、その人が、どんなセンスでものを選ぶか、という部分。 僕は恥ずかしいんで、街中で手を繋いで歩く、なんて本当に稀なことなんだけど、 僕の言い回しで言えば、それはあくまで、データに過ぎなくて。 例えば、ある時から突然、手を繋ぐのが好きになり過ぎて恋人に引かれたとしても(苦笑)、 それは、そこに至るまでのプロセス、 たとえば、『恥ずかしい』という感情より、そのとき愛情を表現することを優先する、 (もちろん頭でそう思ってしてるわけではないよ、感じたこと)、 という感じ方のプロセスの変化が見た目の変化を引き起こしてる。 そういう判断基準の変化の仕方、そのプロセスがそう変化した原因については、 あくまでたとえ話だからわからないけど、 そういう選択をして、自分で納得できたとき、それはやはり自分としては、極めて『自然なこと』で、 僕の中では、ちっとも変わってない、ということになる。 そういう選択をさせた部分が、自分、ということ。 つまり、曖昧な言葉で言えば、自分というのはつまり感性。 どんな言葉を選び、どんなリズムで話すか、というのはその人の感性。 感性が変わらなくても、ベクトルが変われば、言葉として出てくる内容は変わる…あー、わかりづらいな。 上手く説明できない、大雑把に、簡単に言えば、 『変わらない』ということが、『考え方を変えない』ということではない、ということを言いたい。 嫌いなものを子供に食べさせるとき (あいにく僕は嫌いな食べものが出来たことがないので実感が伴わないかもしれないが)、 『椎茸はね、栄養があって体にいいんだよ』とか言っても多分、子供は、うんと言わない。 だってまずいんだもの、って言っておしまい。 わからせるためには、彼の感性が椎茸を受け入れるってことを教えてあげる、 つまり例えば、おいしい椎茸とか、美味しい調理の仕方とか。そういうことが大事なんだと思う。 きっと、嫌いなものがある人にはわかるんじゃないかな? 決して、彼の中で何かが変わったわけじゃなく、気が付いただけ、というか… 彼の感性に沿って椎茸なら椎茸、人参なら人参を見れるようになった、そういうことなんだと思う。 (もちろん、年をとって多少苦いものも好きになって(=感性が変化して、結果気づいて) ピーマンが好きになる人もいるだろうけど) 栄養がないから、って嫌いになる子供がいるとしたら…どうかしてるよ(笑) 僕が、冒頭のような言葉を繰り返すとき、には共通点がある。 振り返ってみないとわからない部分が多いけど、多くの場合、自分を見失っているとか、 変わるべき、と思っているとか、そんなとき。 でも、たとえ、アルコール中毒になって荒れた生活をしても(=それまでの自分と全く違ってしまっていても)、 街角でふと見た桜に心動かされることはあると思う。 周りに与える印象や、実際の自分がどの程度変わっているかは僕にはわからないが、少なくとも、 僕が大事だと思っていること、言葉の選び方や、感受性や、そういったことが、 少なくとも自分の知っている自分と繋がっている、そういうことを感じたときに、 あぁ、変わったように見えて、やっぱり僕には僕の感性がある、と実感する。 それが、変わらない、ということ。 人間には、変わってもいい部分と、大事にしなくてはいけない部分とがあるのだと思う。 しかし、その二つは確かに存在しているにもかかわらず、線引きは曖昧で、わかりにくい。 僕らは、自分の大事なものはなんなのかを、常に試行錯誤し、探しながら生きてるんじゃないか? 少なくとも、僕はそうだ。 僕にしたところで、しょっちゅう見間違う。 手を繋がないことが、デートするときに3番目くらいに重要だったこともあったかもしれないが、 今の僕に言わせれば、そんなことは些末なことだ。 そもそも、相手を好きだと表現するためにデートしてるのに、絶好のチャンスを棒に振ってどうする?と。 ま、それはたとえ話で、実際には相手のある話ではあるけど。 時に、MUTTERという『ごった煮』から『フカヒレ(=重要な要素)』を探して欲しいと考えてる僕も、 不親切きわまりないけど、 僕という人間だって、変わるんだ。 でも、変わらない部分もあって、それが今僕が大事にしてる部分だということだ。 付記。 MUTTERにおいては、愚痴や独白でない限り、言葉の定義まで細かく説明しない。 日記調のこともあれば、論文調のこともあるけど、僕は多くの場合、『散文詩』だと思ってる。 だとするなら、言葉の定義についていちいち説明するのは興ざめだし、 なるべく少ない言葉で、なるべく深い何かを読む人に与えることが、究極の目標、ということになる。 だから繰り返し言ってきたけど、僕の考えを知るのには向かない、のだ。 感性、についてはわかってもらえると思うけど、所詮一方的な言葉なのだから、 具体的なことは会って話してみない限りわからない。 読む人は『ニュース』とか、『イッペイ新聞』みたいに読んでるんだろうけど、違うときもある。 詩というのは基本的に…感性で言葉を選び、言葉の間にも感性を詰めて、人の前に差し出すものだ。 でもいったん差し出したあと、読む人が何を感じるか、までは規定しない。 別れの詩があっても、特に定義しない限り、恋人なのか、友人なのか、愛犬なのか、 それを決めるのはあくまで読む人間なのだ。 それらを読んで、何を感じるか、ということに関しては、あなたの感性に著作権がある。 2004.04.23 2004.04.24[改訂] 2004.06.10[改訂] 2004.09.06[再掲]

