思うことを書く。

僕もいつも思っていて、気をつけ、また危機感を持っていることと同じことを、 『ダーリン』がほぼ日で言っていた。

今日のような、つまり「8月15日終戦記念日」のような、 特別な日には、この『今日のダーリン』を書くのが難しい。 「思うことを書く」のではなく、 「書くために思う」なんてことをしそうになるからだ。 自分のこころで思っていることが探り当てられないで、 どこかで仕入れたような、 先生にほめられそうなことを書いてしまう。 そういうことが、いちばん起こりやすいのが 8月15日のような特別の日なのだと思う。
そうなのだ。ものすごく難しい。 きちんと、書き表せてるように見えてしまうが、 自分ではかけ離れているという印象も同時に持つ。 僕の場合で言えば、 多くの人の意見で、既に決まっているというようなこと、 例えば『戦争はいけないことだ』というようなことを前にして、 何かを書かなければ、と思う、そこで、書くことを考えてしまう、 すると、書くことを思うと、道筋が二つしかないように見えてしまう、 戦争はいけない、と書くか、そうでもない、と書くか、 要するに世論を肯定するか、否定するか、どちらかに自分を同化させてしまう。 自分は自分の思いがあって成り立つはずなのに、 世論なしでは、自分の思いが成り立たなくなってしまう、 それはきっと僕ではないし、書く言葉に対しても責任を感じられない。 結局ね、 上手くいえないんだよ。 もう最初から、絶対的に自由じゃない。 思うことを手のひらの上に乗せて、 回しながら書いていくことが『書くこと』だと思うのだけど、 今日みたいな日のことは、手に乗りきらないんだよ。 これが例えば、アメリカ同時多発テロのことならまだ書ける。 でもそれって、あまりに他人事だからね。 アメリカ人が、原爆を平気で肯定しちゃうのも、あまりに他人事だから。 人を殺すための『必要』なんてあるわけがない。 昔はそれでも、無理矢理、感想を書いてしまうこともあったんだ。 俺はこう思う、みたいな、ね。 でも、世の中はそんなに簡単には切り取れないよ。 だから、最近は、書けないことを感じることが出来るようになったと思う。 それを書ききるには、時間と知識と、覚悟が必要なんだ。

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京都ゴミ処理事情。2005

以前、京都のゴミ処理に関して感想を書いた。 自分だって、ゴミの分別なんか正直面倒なので、細かくやりたいとは思わないけれども、 それにしたって現状の京都市の態度と言ったらどうよ?と思ったのだ。 それから2年が経過したが…京都市のゴミに対する政策は大して進んでいない。 今年2月には、主に二酸化炭素の削減を目的にした、 『京都議定書』が発効したにもかかわらず、京都市のゴミ処理の基本は、 依然として、『全量焼却主義』であり、 燃える物はとにかく燃やす、ダイオキシンが出ないように高温で燃やす、 出た灰は人里離れた場所に埋め立てる。 市民生活としては確かに悪影響はないかもしれないけれども… 『二酸化炭素を削減する → 燃やすゴミの量を削減する』という 発想にならないのはなぜなのだろう? 8/10付けのHotWiredにこんな記事が載っていた。

米スバル工場が「ゴミ排出ゼロ」実現
 インディアナ州ラフィエットにある米スバル・オブ・インディアナ・オートモーティブ(SIA)社[富士重工業の子会社]の工場では、毎週何百台もの車が生産され、送り出されている。この工場から出ないもの――それはゴミだ。毎週家の前までやってくるゴミ回収車は、この工場の製造過程で出る量よりも多いゴミを運んでいる。  この工場は、北米初のゴミ排出ゼロの自動車組み立て施設だ。昨年この工場から出た鉄鋼、プラスチックなどの廃材は、100%再利用またはリサイクルされた。たとえば、かつて廃棄処分されていたペイントスラッジ(塗料カス)は、乾燥処理で粉末状になってプラスチック製造業者に出荷され、最終的には駐車場の車輪止めやガードレールに使われる。再利用できない廃材――工場から出るゴミの約3%――に関しては、インディアナポリスに送られ、発電に利用するため焼却される。

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