親切の構造。
コメントを書こうとしたらなんか冗長になっちゃったので、トラックバックすることにする。
KIDBOX::It’s kind for your nothing. 自分が他人に行った「親切」という名の行為を、何か他のもので計ることしか出来ないのならしないほうがまし。 「貴方のために私は」なんて遠まわしに、あるいは直接的に感謝の言葉を強要するくらいなら。筆者は、極めて『自省的な人間』だから、こういう表現になるのだと思うけど、 しかし、道徳的な観念の外で『親切』と言うことを考えれば、 親切という行動も、『見返りを求める行動』の一部でしかない、と思わざるを得ない。 『貴方のために私が』と相手が主張した場合、その親切には二通りの可能性がある。 自分が相手に気付いてやれなかった、相手が求めるだけ報いられなかった、 または、余計なお世話だった、と。 親切を『見返りを求める行動』とするのは抵抗があるかもしれないが、 相手のお礼であれ、神の祝福であれ、 結局何らかの見返りを求めていると言うことは、 在る程度真実のような気がする。 相手のことを不憫に思い、相手のことを思ってとった行動に対して、 相手がつれない返事、という場合にも、 そこにはあらかじめ、 『自分が何かをしてあげた』という充足感を得たいという希望があることは、 僕ら凡人で在れば避けがたいこと。 要はそれを相手に主張するかしないか、が、 社会的に礼儀正しいか正しくないか、ということであるし、 一般的には日本では、非礼に当たる、ということなのだろう。 相手に感謝の言葉を強要するという行動の構造は、 一に、相手に求めた見返りが大きすぎた、ということであり、 二に、相手の見返りが小さすぎたということだろう。 自省的な、といったのは、 相手が何をしてくれるかは度外視している、と信じた上で、 見返りを求めるという行動は非常にみっともない、良くない行動である、 と感じているから。 行った行動にもよるが、相手の反応があまりにぞんざいである場合、 『しただけ損した』と感じてしまうのは、決して特別ではないし、自然なことのように思う。 『情けは他人のためならず』という言葉が暗示しているとおり、 親切というのはやはり、何らかの形で自分に返ってくるモノなのではないか? それでいて、『返ってこなくても良い』と納得できることが道徳的に美しいのだが、 かといってチップを求めるウェイターが不快かというとそうでもない。 彼は彼の責任内で、最大限『親切に』してくれるわけだし、 見返りがチップであるから、即物的なのであって、 それがお礼であっても、親切の構造は損なわれないだろう。 (ウェイターは納得しないので、このやりとりが上手くいったとは言えないが) 結果として上手くいかない親切、すなわち、 相手がきちんとした見返りを用意しない、もしくは 求められる見返りが大きすぎると感じた場合、 それは、不全なコミュニケーションに終わるし、 『不快な会話』と同じく、最初から無い方がよい、ということになると思う。 結論。 親切とは、見返りを求めるコミュニケーションであり、 それを完全に回避することは出来ない。 また、コミュニケーションが不全か否かは、お互いの社会的基盤に依る。 円滑に進めるためには、相手の言動をつぶさに見た上で、 求める見返りを最小限にし、与える見返りを最大限にする、しかない。 決して、『親切』をする側の、一方的な行動ではない。