男30代は1975年に80%が新聞を読んでいたのに対して、2010年には23%しか読んでいない。当初は活字離れ、テレビの影響、そして近年はこれに加えてインターネットの影響が背景にあると考えられる。参考のために示した中間年2000データと比較すると分かるとおり、新聞離れはインターネットの普及した最近だけでなく、1970年代~90年代から進行してきていたのである。
1975年に30代だった者は35年後の2005年には60代以上であり、男女とも、この世代が一番新聞を読んでいる状況に変わりはない。初期の戦後民主主義教育世代が新聞愛読世代だった訳である。
これを新聞の危機と言わずして何と言おう。高齢者数が増えているので、なお国民1人当たりの時間は減っておらず(図録3960参照)、急激な購読者数の減少には見舞われていないとしても、今後は、かなり、危ういことが容易に想像される。すでに新聞の広告収入は減少傾向にある(図録5650)。
記事中でも指摘されているとおり、1975年の調査当時に熱心に新聞を読んでいた世代は、30年後の調査でもやはり熱心に新聞を読んでいる。同様にその前後の世代も5割を超える人が新聞を読んでいる。特定の人間に焦点を当てて追えばそう変わってはいないのだけど、2005年の10~30代を1975年の10~30代と比較すると、購読率は半分以下。
これと似たような傾向を示すものと言えば…娯楽とかファッションとか、かなぁと思う。
例えばファミコンなんていうのはその発売当時にちょうどその年代だった人間しかしないわけですよ。ファッションもそう。テレビ番組なんかもそうかな。そういう意味で言うと、新聞ってのは随分と過大評価されていただけで実はただの「流行」でしかなかったんじゃないかと。
基本的な部分は「言説を如何に大衆に届けるか?」という部分なわけで。メディアが新聞でなくても言説を大衆に届けるのは可能ではある。メディアの形として新聞がが出てきたときに「こりゃいーや」と思って飛びついた人達が今も便利に使ってるだけで、言説を大衆に届けるという意味ではもう流行ではないだけなんじゃないかと。
新聞『社』は新聞を作る会社だから新聞の存続に今以上の発展に尽力していくだろうけど、新聞『記者』の本分は新聞紙上で言説を展開することではなく「社会に影響のあるものを届けること」なわけだ。新聞記者が新聞に拘り続ける必要はないし、新聞社はそういう人材をまとめて投入できるビジネスモデルが必要だと思うのですよね。それができれば流行遅れになりつつあるメディアで減りつつある収入はカバーできるはずだし。
新聞というメディアが衰退し信頼度を失っても、記者それぞれの能力が否定されているわけでは決してない。ニュースに対する需要が減ると言うこともあり得ない。もし今、(多分)優秀な人材を抱える新聞社がその人材を生かせる道を造り出せないとしたら、そういう人材はそのまま、緩やかにいなかったことになる。これって、社会的にかなりの損失なんじゃないのかな。
新聞社の財産は、新聞そのものではないと思うんだよね。
記者という人材と、彼らの意思、なんじゃないかなぁ。