デジタル断捨離の一環として、Twitterに鍵を掛けていたのですが、結局それから2週間くらいで解除しました。理由は2つあって、1つはTwitter経由でもらうリアクションが思いのほか多かったこと、もう1つはツイートする機会は多くなくても何らかの情報を流す機会は結構あったこと。「誰かと繋がりたい」と思ってツイートすることはまあ無いにしても、ソーシャルブックマークを通して一言コメントすることは、ある程度、自分の知らない人にも届くかもという思いはあるわけで、じゃあまあ、鍵解除しておきますかという感じ。別に今から就活するわけじゃなし、かつてヘイトスピーチしてたわけでもなし、掘られて困るような過去のツイートはないし、これからも多分しないと思うので、まあ良いかなと。
鍵を掛ける必要があるのは、知人や友人との間でよくやりとりをしていてそれが知らない人に読まれたくないような人であって、僕みたいに直接やりとりすることはごく稀という人は、鍵なんか掛けても掛けなくてもどっちでもいいのね。やる前に気づけよって感じですが、やってみて改めてそう思いました。
そう考えると「断捨離」といっても、何でもかんでも捨ててしまって身一つになるというのは簡単なことではないなあ。フィジカルなことであれば、それが無くなったときの日常を想像しやすい(例えばTVとか)から踏み切りやすいけど、デジタルだと存在感が曖昧でそれが上手くつかみにくい、気がする。フィジカルなものは、使わないまま年月が経てば時間の流れに合わせて劣化していくけれど、デジタルはそうでもない。20年前に送ったメールだって、寸分違わぬ形で再現可能。なまじ劣化しないもんだから(例えばLINEのログとか)、ついつい惜しくなるのかも知れない。
もちろんこういう「必要になるかも知れないから一応取っとこう」を全部捨てるのが「断捨離」だとするならば、存在感が曖昧なものはすべて捨ててしまって良いんだと思うけどね。