パッと思いついただけなので、特に何も調べてもないけど。
なんだか、ニコニコ動画と和歌って似てるなーとか思ったのね。
平安貴族が当時やってたことって、ニコ動でやってることと変わらんよねとか。
(ブログ界隈の話題のグルグルさ加減とかもそうかも)
古来からの文化を愚弄するなとか言われそうだけど。いや、良い意味で。
和歌のどの辺が似てるかって言うと。
まぁ僕も国語の授業の微かな記憶だけで書いてるのでアレだけど、
例えば、『本歌取り』って言う手法があるよね。
本歌取りとは – はてなダイアリー和歌、連歌などの技巧の一つ。
すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧。
新古今集の時代に最も隆盛した。
俳句 – Wikipedia本歌取り
有名な既存の俳句や短歌などから言葉を流用し、言外に本歌の内容を表現する技法。例えば「見わたせば山もと霞む水無瀬川」から「山もと霞む」を流用し、言外に「水無瀬川」を示すなど。
はてなダイアリーキーワードの方に書かれてるけど、
現代でもこれから転じて、『オリジナル作品へのリスペクトから、意識的にそのモチーフを取り入れ』る時にも使う。
また、Wikipediaの俳句の項の使い方は、凄いクールな感じがする。
有名な句の一部を借りた上でさらにその句を発展させる…そんな感じ。
『単なるコピー(パクリ)とは異なる』と書いてあるけど、
その辺の判断はものによって微妙なので本歌取りだけを押すわけじゃなく。
Wikipediaの和歌の項には他にも色々な修辞技巧が書かれていて。
そのうち、これらについてはニコニコ動画の特徴としても解釈できるかなーとか。
上4つは、全体の流れで1つの単語が既に深い意味を持っているものや、
その単語1つで複数の意味を表すことが出来る…などの、
意味合いをピースに落として共有する感じがある。
他にも、返歌みたいな感じ(単なる返事ではなくて、上の句に下の句を付けて返す的な)とか、
歌合(共通の場所、お題で優劣を競う)とかでも、
多少強引ではあるけど、ニコニコ動画を連想することができるかなーと。
僕個人は、こういう手法は粋だなぁと思うし嫌いじゃないけど、
1つだけ難点があって、知らないと分からない。
『それが教養』と言ってしまえばそれまでなんだけど、
和歌全盛の時代のことを考えると、これってただ単に平安貴族の内輪だよねっていう。
歴史上の文献には出てこないけど、本当は貴族以外にも圧倒的多数の庶民がいたはずで、
そういう庶民にとってはそんな内輪ネタなんか全然関係ねー。
国語の授業で国語教師が嬉しそうにしてた解説に対して、
めんどくさ…とか思ってた理由がこの辺にありそうな気も。
貴族の内輪ネタなんざ知ったこっちゃねーよって言う。
僕自身は全く興味がないアイドルマスターネタなんかでも、
それぞれのプロデューサーはそれぞれの持ち味(演出とか)を持っていて、
コミュニティの中で切磋琢磨しつつ、場合によっては取り入れたり、
自分なりの解釈をして返したりしてるんだろうなぁと。
そして全体として、表現の凝縮となって昇華していってるんだけど、
興味の持てない人にとっては残念ながらそれはゼロでしか無くて、
つまりは僕にとっての国語の授業と同じで、
違いはテストに出ないってことくらいしかないかなーとか。
いや、だからといって、ニコ厨UZEEEEとかではなくて、
それはほら僕自身もそうだからなんだけど、
文化の持つ側面として、
- 様々な修辞技巧が開発される中でその理解を敷居として内輪にならざるを得ない。
- カテゴリの偏りによって、ニコニコ動画ではそれが顕著に観測できる。
- ただそれは、一定以上の規模の文化においては良くあること(ex. 和歌)で、ことさらにネガティブなものでもないのでは。
といった感じの特徴があるのかなぁと。
そして同時に、和歌と同じように、絶滅が約束されているのかも?とか。
でもそれは文化という大きな器で見れば、他の何かに取って代わられただけで、
きっと良くも悪くもない普通なことなんだろうなーと思う。
蛇足
しかしあれだ、Wikipediaの歌合の項に、基本的に「遊び」であるが、平安期には歌の優劣が出世にもかかわる重大事であったため今日行われるような気軽なものではない。
とか書かれててちょっとガクブル。
つぶし合いとかになったりしたんだろうか…
平安貴族恐るべし。