頭から実話と思って読む人…に関する再定義。

このエントリの続き。

実話か創作かについて、少し。 : NOBODY:PLACE

前回のエントリできっかけになったシナ千代さんの連続コラム?が更新されたのだけど、
ちょっと僕の認識が間違ってたっぽいので、そのへん。

前回は
どうして実話と思って読み始めるのだろうか。
まで書いた。

このあたりの理由について、ここ数日、ぼんやり考えていた。べつに結論は出ないのだけれど、考えている感じ、というのが薄れてくると困るのでとりあえず書く。
 


僕の感じでは、『実話だと思って読む人』ってのは、
冷めてないとか距離を置かないとかそういう感じのノリかなーと思ったのだけど、
どうやらそうではなくて頭からそれを実話だと思いこむ感じの、
そしてそれが実話か創作かは、中身に大きな影響を与えてくると考える人のことみたい。
(だから後で創作であることが判明すると裏切られた気分になったりする)


少し前に、シナ千代さんは全て創作だと思って読む、
僕は実話として読む(釣りでも読んで楽しければ構わん)で態度は逆だけど、
テキストに対するスタンスとしては同じ(実話だろうが創作だろうが、
そのことは中身に関しては重要でもない)というような感じの意味合いでエントリを書いたんだけど、
そういう感じであるとしたら、まー僕とは違うんだなって言う。実話だと思って読む人。

そのテキストが実質的に実話でも創作でも構わないという立場は、
頭から実話だと思う人の中では成立せず、
実話であることが書かれていることへの驚きや感動を担保してくれるというような、
そういう感じの立場の人みたい。


シナ千代さんはその先に思考を進めていはるのだけど、
僕には読んで分かる部分も分からない部分もあるので、言及は続編を待つとして、
この“実話であることに重要性を感じるスタンス”は、
ある意味でブランド志向的な意味合いのスタンスだなぁとぼんやり思った。

ブランドというのは、元は良いものだからブランド化したのだろうけど、
それがブランドだから良いものに転換されているって言う。
実話と創作とが読み手に与えるこの辺りの影響ってのは、
TV番組におけるドラマとドキュメントの役割分担の方が分かりやすいかも。
ドキュメント/ドキュメンタリと銘打つのは、ストレートにこの辺の話だしね。
自分との地続き感とか、中身の濃厚感とかその辺の手触りを与える外装というか。

そういう僕だって、テレビ局のニュース捏造なんかには過敏に反応するわけだし、
そのことは結局、実話性を偽ったテキストへの前述の人たちのリアクションと、
構造自体は何も変わらないね。
きっとこれと同じような精神構造が、テキストに対しても行われているんだろうなぁ…

と言うような想像。


うーむ。