目黒のサンマ

今年初サンマ!#dinner この間サンマを食べているときに話題になった話。 「目黒はサンマが有名なの?」 いやいやいや。江戸時代でさえ目黒は内陸の街だしさんまが採れたわけではなくて、これは落語の噺だよね。誰の噺を聞いたかは忘れちゃってうろ覚えだけど確か殿様が…と思ったらWikipediaにあらすじが上手にまとまってた。

目黒のさんま – Wikipedia

殿様が目黒(場所については後述)まで遠乗り(あるいは鷹狩)に出た際に、供が弁当を忘れてしまった。殿様一同腹をすかせているところに嗅いだことのない旨そうな匂いが漂ってきた。殿様が何の匂いかを聞くと、供は「この匂いは下衆庶民の食べる下衆魚、さんまというものを焼く匂いです。決して殿のお口に合う物ではございません」と言う。殿様は「こんなときにそんなことを言っていられるか」と言い、供にさんまを持ってこさせた。これは網や串、金属、陶板などを使わず、サンマを直接炭火に突っ込んで焼かれた「隠亡焼き」と呼ばれるもので、殿様の口に入れるようなものであるはずがない。とはいえ食べてみると非常に美味しく、殿様はさんまという魚の存在を初めて知り、かつ大好きになった。 それからというもの、殿様はさんまを食べたいと思うようになる。ある日、殿様の親族の集会で好きなものが食べられるというので、殿様は「余はさんまを所望する」と言う。だが庶民の魚であるさんまなど置いていない。急いでさんまを買ってくる。 さんまを焼くと脂が多く出る。それでは体に悪いということで脂をすっかり抜き、骨がのどに刺さるといけないと骨を一本一本抜くと、さんまはグズグズになってしまう。こんな形では出せないので、椀の中に入れて出す。日本橋魚河岸から取り寄せた新鮮なさんまが、家臣のいらぬ世話により醍醐味を台なしにした状態で出され、これはかえって不味くなってしまった。殿様はそのさんまがまずいので、「いずれで求めたさんまだ?」と聞く。「はい、日本橋魚河岸で求めてまいりました」「ううむ。それはいかん。さんまは目黒に限る」。

すとん。 まぁ要するに風刺ですね。殿様は庶民の魚であるサンマなんかもちろんも知らないし、魚がどこで水揚げされるかも知らんと言うね。 先に書いた通り「目黒」(Wikipediaによると渋谷道玄坂もしくは目黒と恵比寿の間)は江戸時代でも内陸で、サンマが目黒で水揚げされていたわけではなさそうだし、少なくとも「目黒はサンマで有名」ということはなかったようだけれども、サンマが庶民の食べ物として昔から愛されていたことと、目黒にはそういうサンマを愛していた庶民がたくさん暮らしていたと言うことがわかって、なんだかロマンを感じます。 そういう意味で言うと目黒で行われているサンマ祭も、「目黒で食べるサンマが美味しい」ということよりも、そういう庶民が暮らしていた当時を思うという意味でとてもロマンチックなお祭りだなあと思ったのでした。 サンマは美味しいなあ。

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古典で遊ぶ。

昨日、寝ようと思ったら平成紅梅亭が始まってしまって、 寝るに寝れなくなってしまった。 出演は、 露の五郎兵衛 桂米朝 酒井くにお・とおる 笑福亭松之助 桂春團治 という4人1組。 最もやばかったのは、わざわざ言う必要もないけれど…、桂米朝。 なんて言うかなー凄いなぁ、面白いなぁ、と思って聴いてた。 いや別にね、古典をやってるって言うんで凄いって言ってるんじゃないけども、 春風亭昇太の言葉を待つまでもなく、 古典も新作も関係なく、面白い噺を話せる噺家が一番良いんだと思う、 好きなようにやること、それこそ落語だと思うけれども、 そうなんだけどね、桂米朝という芸はなんだかさぁ、 そういうところとはまた別のところにいるような気がしたんだよねぇ。 枕でもネタでも、アドリブもあり、老いを感じるところもあり(苦笑)、 どう言うかな、 古典を好きなようにやっている、 古典で遊べているような気がするんだよね… こんなところで、桂米朝という噺家を褒めることに何の意味もないけれど、 この間、春風亭昇太のドキュメンタリーを見ていて、 新作にもこだわる…と言うか、落語そのものの本質にこだわる姿に、 気持ちよさ、そしてもちろん面白さ、共感、いろんなことを感じたのだけど、 なんとなく、かすかに、『古典』という単語、概念から、自由になってないような気がして、 ドキュメンタリーの描き方との間に、ほんの少し違和感を感じたんだよね。 『本格派とか、意味が分からない』 そう言う言葉には、彼自身のイデオロギーが正しく投影されているんだけど、 なんとなく、意識するが故に避けている、ような。 (本当のところどうかは僕は知らないけれどもね) や、実際に古典だってやってるし、避けてるわけではないはずなんだけど、 何か引っかかるのは思いこみなのかなぁ。 きっと、そう言うことを意識しなくなって、 古典の中で新作を作れたり、新作の中で古典をもって来れたり、 なんていうか、時代の物差し無しで、ネタが介在することなく、 噺家と客になれると、名人、と呼ばれるような気がする。 なんだか違和感については上手く整理できないままだけど、でも、 米朝は凄いね。 厚みを見た。

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落語と私。

子供の頃から、実は落語を聞いて育ちました。 あんまり言ったことないんですけど。 何歳くらいの時のことか忘れたけど、父親が、 志ん生(五代目古今亭志ん生)にはまりましてね。 塾の送り迎えとか、旅行の時とか、仕事手伝うときとか、 車の中で、『火焔太鼓』とか、『三軒長屋』とか、『大山詣り』とか聞いてたもんですよ。 特に、『火焔太鼓』と『三軒長屋』は、全編空で言えたほどで。 今はもう殆ど覚えてないけど、 志ん生の枕から、全部、暗誦できたなぁ。 で、高校を卒業して、実家から離れてしまったので、 それ以来落語とはとんとご無沙汰だったのだけど、 実家に帰る度に、落語のテープ、CDが次々増えてて、その度に、 あー聞きたい! と思ってたんです。 でも実際問題…落語ってあんまり聞く機会がないでしょう? 寄席だって全然無いし。 それでも、NHKの朝夜の放送とか、 鶴瓶とか、三枝とかがやってる番組を見てはいたけれども、 僕が聞きたい落語はもっと古典なの。 それこそ、子は鎹とか、らくだとか、まんじゅう怖いとか、そういうの。 タイガー&ドラゴンなんて、ホントはむちゃくちゃマニアックなんだけど、 (そしてそういう視点で言うと、長瀬の落語は聞いてらんない…) 凄く軽い味つけでだしてて、あれはアレで良い、 でも、あくまでアレはドラマ。ドラマそのものが落語なわけで。 そうではなくて、落語として、ちゃんと聞きたいなーと思ってたんだよね。 で、遂に買ってしまいました。 Amazonにて、『五代目古今亭志ん生 名演大全集』。 全48巻もあるらしいんだけど、とりあえず、1と2を。 1は、やはり志ん生の十八番中の十八番、『火焔太鼓』、 2はその火焔太鼓の別バージョン(言うたらりミックスみたいなもん)が、入ってる。 志ん生って晩年は体を悪くしてあんまり口が回らなくなって、 もう本当に最後の方は何を言ってるのか聞き取れないほどだったけど、 それでもめちゃめちゃに面白かった。 最後は、高座に出てきて、すっと寝ちゃって、起きてはける、 それだけで客は大喝采、 そんなエピソードを、大泉がどうでしょうで言ってたけど(誰が分かったんだろう、アレ) そんな気持ちも、分かる気がするなぁ。 そうそう、実家に、新旧噺家のエピソードを集めた漫画があってね。 なんて言ったけかなぁ…ああ、これだ!『寄席芸人伝』! これがまた面白い漫画でねぇ。 『Barレモン・ハート』なんかを書いてる、古谷 三敏さんの漫画なんだけど、 味わい深くて良い。 そんなこんなで、実は落語が好きなんですよ。 今、iTunesで聞きながらこれを書いてますが…(なんか風情がねぇなぁ) 志ん生の出囃子、これを聴いただけで、なんて言うかなぁ… ビビッ!と来るもんがあるよね。 始まる、始まる!っていう… なんか、48巻全部揃えてしまいそうで怖いです。 いや、むしろ、音源になってる落語を片っ端から聴いてみたい気分にもなるなぁ。 ありえる。 やばい、やばい。 -- 父親には、本当にいろなものを教えてもらって、 僕の感性の根っこには必ず父親があると思うんだけど、 本当にこういうものを知ってて良かったな、と思います。 お父さん、ありがとう。 心から。

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