キリスト教に対する素朴な疑問。
これと言って深い意味はないので、さらりと流して欲しいんだけど、 本能寺で、子供を叱る坊主を見ていて、ふと。 (多分、自分の子供ではないとは思うが) キリスト教は、『隣人を愛せ』と、万人への愛を説いているんだけど、 その教えと、聖職者たちが、子孫を残すことを禁じられていることとは 矛盾しないのだろうか?と。 理屈は何となく想像が付く、 聖職者たちはキリストに身を捧げていて、結ばれるのはキリストのみ、 キリストの愛を受けながら、その愛を全ての人へ伝えていくのが使命… まぁそうなんだけど、ひどく意地悪く考えると、 人類がみんなそうだと、人類は滅びるわけで。 キリストは神でも何でもなく実在した人物で、 今は、少なくとも種を残せる形では生存していないし。 (愛=生殖という事を言っているわけではないが、一つの形として) キリストへの愛と、隣人への愛、どちらを選ぶのか? ということを指摘できると言うことは、少なくとも、 (キリストを含めた)全てのモノへの等しい愛、と言う形ではなく、 何か、どこか、矛盾しているような… 恐らく、そうした疑問に大してきちんと答えるだけの 論理や、言葉が聖書やその他の本の中に 記述されているのだと思うけれど、 基本的に無知なので、好き勝手言ってみる。 キリストは母はいるが父はいない。 ヨゼフは、自分が父である(現実的に考えてそうだろうよ)ということを キリスト教によって剥奪されているわけだ。 マリアは自分で自分が処女だった、と知っているわけだが 逆に言えばそんなことはマリアしか知らないし、 100歩譲って処女懐胎だったとしても、キリストの父親こそが神で、 キリストは正確にはギリシャ神話に出てくるような、半神半人だよな? 神じゃ、ないんだ。 なんというか…この時点で、一神教ですらないんだけども。 おっと、批判じゃまったくないんだが(ホントにただ無知なだけだ) 終わりそうにないし、脱線してるし、もう終わりにしよう。 ただ、その辺りの、全ての人に愛を、ということについて 聖職者はどう考えているんだろう…?と。 愛にもいろいろ形があって、『契り』に関する愛だけ、売り切れ、 しかしその他の愛は全て他者に捧げます…ということなんだろうか。 某国大統領の宗教をキリスト教と呼ぶのは、 キリスト教に対する冒涜だと思うのでやめておくけど、 宗教に身を捧げる人というのは本当に興味深い。 キリスト教であれ、イスラム教であれ、ヒンドゥー教であれ、 仏教であれ、神道であれ、その他の何かであれ。