ゆくえ。

将番頭の曲にあったな、確かこんな曲。 今日は家族会議でした。 祖父が死んで、父親は生計を成り立たせることができなくなり、 望むと望まざるとによらず、何かを始めなくてはならない。 もちろん、僕も妹もすでに独立しているから、 自由にすればいい、でも、 なんだって勝手にやれば?ということじゃない。 やっぱり、心配はするし、いろいろ考える。 ただ、父親は、決して何もかもしゃべるような人間ではない、 むしろ、基本的には明るくて冗談ばかり言っている人間なのに、 こと自分のことになると、何一つ語ろうとせず、言葉にする努力もせず、 相手が自分のことをわかっていないということもわからず、 (年齢や見た目にしては少し古風なのかもしれない) 僕らは振り回されるばかり。 自分では、さ、思いついたままに生きよう、と思ったのかもしれない。 わからなくはないし…できることなら、そうさせてあげたい。 でも、あいにくと、もう、家出少年ではないわけで。 すくなくとも、母親の人生は巻き込むのだ、ということを認識して欲しい。 父親以外の家族は、どちらかといえば、本音で勝負する人間たちだ。 真面目なことを言うのに冗談で誤魔化す必要はないし、 自分の思考を省略して話すこともない。 だから、話し合いとしては相容れないことは、当たり前のことなのだ。 でも、たとえ家族以外の人間にはそうであってもいい、 でもとても重要なことであるなら、家族にだけはきちんと話して欲しい。 少し、いろいろなこと言い過ぎて、妹と二人でいじめすぎてしまったような気がする。 話せないからといって考えていないわけではない、それはわかっているつもりだ。 辛抱強く、質問をし、考え、意見を述べた。 だが、僕は、結局何も話さないまま結論だけを出す態度が変わらずに、 あきらめて退席してしまった。 『一緒に考える』というのであれば、いくらでも、どんなことでも付き合うよ。 でも、考えたことを聞けってんなら、ただ聞くか、聞かないかしかない。 それは家族じゃないよ、父さん。 非常に不安だし、心配だ。 でも僕は見ているしかないのだろう。

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PIXUS iP4100 購入。

新しいプリンタ買いました。 きちんと選んで金出して買ったプリンターって初めてじゃないかなぁ… 今までのは、大体パソコン変えるときにしょぼいエントリーモデルを買ってただけだったので。 てか、わざわざ静岡で買う必要もないんだけどね…(苦笑) まぁ、友達に電話がつながらず暇だったということで。 今設定中。 (実家のPCは未だにWindows98なのでいろいろとドライバの設定が面倒) また後ほどレポートでも。 【追記】 使用してみました。 率直な感想から言うと…こんなに綺麗でいいんだろうか? 今までの自分が持ってたプリンターが如何にしょぼかったか… 印刷ごとのラインが全然でないし、本当に写真そのもの… いまどきのプリンターでは当たり前かもしれないけどねぇ…すばらしい。 びっくり。 そういうわけで、今日の午後は、母親と妹のパッチワークの写真撮影と、 画像プリントに便利使いされて終わりましたとさ(笑) でもここまでちゃんとプリントされちまうと… なんか楽しみだなぁ…

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仕事における2005年。

年始セールも無事に。 自分で用意して静岡に帰ってきた年始セール。 正直、諸事情により一部やっつけ仕事だったので、不安だったんですが、 ほとんどの点において僕の予想通りに動いてくれたようで、 かなり一安心。 諸事情に関しては…やはり時間の問題かな。 かなり前からせっついてはいたんですが、まぁ、よくあることで、 企画をやろうということは前々からの決定事項であったにもかかわらず、 企画内容に関しては直前になって決まるという… いろいろな動きが主に一部の対話とメールで構成されていて、 書類としてまとめられ、回覧されることのない、 そんな中小企業のサガというヤツでしょうか。 決定までの時間が短縮されているという点で メリットを発揮する部分は多いんだけど、通常業務とはなれているせいか… 実現しようということが技術的にどの程度のものかというスリあわせがないのは やはりしんどいなぁ。 技術的なことに関しては、たとえミスがあっても誰に責任を追及されるということもなく、 謝罪すれば何のお咎めもなし、というのはある程度楽ではあるけど 僕みたいな人間にとっては少ししんどいところもありつつ。 誰に責任があり、どうしたらよいのか?ということが見えないまま、 粛々と作業が進み、それに追われるってのはあんまりね。 自分ではかなり責任を負ってるつもりでも、会議に出席は求められていなかったり。 しかし、もう今の会社で働いていて長いし、2004年。 ある程度わかってきましたよ。 なんだろう、一般的に『愚痴』、それも仕事の愚痴というヤツは 自分では不満があるけれど、どうしようもできないことっていう類のことだと思う。 まぁ、僕が個人的に書くこと(極めて近い人間が見てるのに個人的かどうか悩むが)の なかにも、そういう種類のことはあるけれども、 でも、会社としてはあまりに規模が小さく、 一般的なサラリーマンほどは、『どうしようもない状況』ではないんだよね。 結局は、僕がどこまで望んでいくか、ということ。 年初の文章でここまで書いて良いのかという気はするけれど たとえ、少々言い過ぎたとしても、立場的に僕をすぐに首にするわけには行かないわけで。 (なぜなら他にやるやつはいない) そして多くのスタッフの中で、おそらく唯一僕だけが、『社長』に対して、 忌憚のない意見を言える立場にあるということ。 性格的なこともあるけど、疑問に思うことはぶつけるし、言いたいことは言う。 そうして解決できる可能性のあることを、愚痴として述べるのは、 いささか後ろ向き過ぎるんではないか?と。 会社に入ったときから気をつけているのは、 他のスタッフに対しては、あまり出過ぎたことを言わないようにしよう、 “ボス“と個人的な(それもかなり近い)知り合いだからといって、 虎の威を借るようなことを言ってはならないし、 『みんなを代表する』なんてひとりで気負って、周りの白けた目を見逃すようでもいけない。 ものを言える立場にいるからこそ、私利私欲は捨てなければならないし、 まぁとはいっても… いくら報奨金というニンジンがつってあっても 絶対にそのために無遅刻無欠席を狙うなんてことはできない、立派な人間ではない、 ただ、軽蔑されるような人間であってはならない、と。 それは、馬術部のときに痛いほど感じているからね。 僕自身が、抗議としての『サボタージュ』を選択したときでさえ、 それを理解してくれる人間はひとりとしていなかったし、もちろん決定が覆ることもなく、 ただ義務を果たせないダメな人間というレッテルを貼られ、 言うことはただの美辞麗句でおまえは実行できないといわれ、 発言力とモチベーションの低下という、 悪循環に陥っただけだったから。 それではいけない。 自分が悪いときに頭を下げるのは下策だ、 自分が優位に立ったときに頭を下げてこそ、上策となりうるわけで。 いずれにせよ、自分に変えられるものは、たとえ少しずつであっても、変えていかなくちゃならない。 不満を言って『もう辞める』と、辞表をたたきつけるのは簡単なことだが、 それをやっちゃあ、自分が納得できないし、僕だって困る。 はっきり言ってこれまでの人生、交渉能力に関しては、ほぼゼロに等しいが、 それも学んでいかねばならないかな、と思う。 全ては、自分の『利益』のためではなく。 自分が、納得できるような仕事をするにはどうしたら良いか? それだけ。 それさえ実現してくれるんなら、焦って給料なんか上げてくれなくたって 僕は要求される以上に働いてみせる。 そんなわけで、今年はひとつ戦ってみようかな。 閉塞感を打ち破るには、一度、壊してしまう必要もあるかもしれない。 今まで以上に前を見て。 多くのものを見、感じ、考え、そして行動するのだ。

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2004 -> 2005

本年も一年間ありがとうございました。 本当に長い一年でした… 来年もなるたけいろんな事を『やらかして』いきますので ひとつ、よろしくお願いいたします。 (忌中により年賀状はお受けできませんが…明けおめメールくらいなら) それでは静岡に帰って参ります。 またね。

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考。

ここで私は哲学的な問題の本質について一般的な考えを述べておきたい。哲学における曖昧さはたえがたいものだ。恥ずかしいとさえ感じられる。そのとき人は、はっきりとわからなければならないところでよくわかっていないと感じる。しかしこのように感じるとき、実は事態はそうなっているのではない。われわれは、わかるわからないなどことさらわけず、つまり哲学の問題などはっきりわからなくとも、充分うまく暮らしていけるのである。 (L.ウィトゲンシュタイン『色彩について』第III部第33節)
突然何かに熱狂し、熱中する人々を、 僕は少しおかしいのではないか、と思っている。 だから、様々なモノに突然価値を与える世の中の人々を、少しどうかしてる、と思う。 でも同じように、自分もその中でそのように生きていて、 少なからず影響を受け、やはり、少しどうかしてるのだ。 しばらくあとの僕には昔の僕は見えないが、 しばらくあとの他人なら、昔の僕と比べられるだろう。 今の僕がすこしおかしいか、しばらくあとに聞かせて欲しい。

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オリックス・谷(^_^)子作り宣言

非常に下世話な話で申し訳ない。 『良かったねー』とか『大きなお世話』とかじゃなくて 等身大で現実的に考えてみて欲しいんだけど、 『子作り宣言』(谷は実際には『子供は欲しいですね』と言っただけでそうは言ってない) って具体的に、普段とどう変わるんでしょうか… 2人とも忙しいから、日程を合わせて?いや、儀式じゃないんだから。 ていうか、んじゃ夫婦間で普段全く性交渉ゼロってことなんでしょうか。 (2人とも多忙だからわからんでも無いけどゼロではないような…もちろん知らんけど。) もしくは、『子作り中』と決めた期間は避妊しないってこと? さりげなく新聞やネットニュースを飾ってるけど この言葉ってなんか曖昧でぶっちゃけ下品なような… いや正確な意味とか、ホントどうでも良いけど。 オリックス・谷(^_^)子作り宣言(スポーツ報知)

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模様替えデザイン決定。

盛り込みたいデザインと、 技術的な問題、解像度の低いユーザや狭いウィンドウへの対処…など、 様々問題で、紆余曲折在りましたが、 何とか基本デザインが固まりました。 ま、大筋の印象としては、大きく変わるということはないと思いますけど。 その『テンプレート』に従って、各ページを再構成していくことになるので、 【NOBODY:PLACE 2005】は、年明けのお披露目、ということになりますかね。 ていうか、blogのテンプレートを一々変えていくのが結構時間かかると思うけど。 しばし、お待ちを。

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親切の構造。

コメントを書こうとしたらなんか冗長になっちゃったので、トラックバックすることにする。

KIDBOX::It’s kind for your nothing. 自分が他人に行った「親切」という名の行為を、何か他のもので計ることしか出来ないのならしないほうがまし。 「貴方のために私は」なんて遠まわしに、あるいは直接的に感謝の言葉を強要するくらいなら。
筆者は、極めて『自省的な人間』だから、こういう表現になるのだと思うけど、 しかし、道徳的な観念の外で『親切』と言うことを考えれば、 親切という行動も、『見返りを求める行動』の一部でしかない、と思わざるを得ない。 『貴方のために私が』と相手が主張した場合、その親切には二通りの可能性がある。 自分が相手に気付いてやれなかった、相手が求めるだけ報いられなかった、 または、余計なお世話だった、と。 親切を『見返りを求める行動』とするのは抵抗があるかもしれないが、 相手のお礼であれ、神の祝福であれ、 結局何らかの見返りを求めていると言うことは、 在る程度真実のような気がする。 相手のことを不憫に思い、相手のことを思ってとった行動に対して、 相手がつれない返事、という場合にも、 そこにはあらかじめ、 『自分が何かをしてあげた』という充足感を得たいという希望があることは、 僕ら凡人で在れば避けがたいこと。 要はそれを相手に主張するかしないか、が、 社会的に礼儀正しいか正しくないか、ということであるし、 一般的には日本では、非礼に当たる、ということなのだろう。 相手に感謝の言葉を強要するという行動の構造は、 一に、相手に求めた見返りが大きすぎた、ということであり、 二に、相手の見返りが小さすぎたということだろう。 自省的な、といったのは、 相手が何をしてくれるかは度外視している、と信じた上で、 見返りを求めるという行動は非常にみっともない、良くない行動である、 と感じているから。 行った行動にもよるが、相手の反応があまりにぞんざいである場合、 『しただけ損した』と感じてしまうのは、決して特別ではないし、自然なことのように思う。 『情けは他人のためならず』という言葉が暗示しているとおり、 親切というのはやはり、何らかの形で自分に返ってくるモノなのではないか? それでいて、『返ってこなくても良い』と納得できることが道徳的に美しいのだが、 かといってチップを求めるウェイターが不快かというとそうでもない。 彼は彼の責任内で、最大限『親切に』してくれるわけだし、 見返りがチップであるから、即物的なのであって、 それがお礼であっても、親切の構造は損なわれないだろう。 (ウェイターは納得しないので、このやりとりが上手くいったとは言えないが) 結果として上手くいかない親切、すなわち、 相手がきちんとした見返りを用意しない、もしくは 求められる見返りが大きすぎると感じた場合、 それは、不全なコミュニケーションに終わるし、 『不快な会話』と同じく、最初から無い方がよい、ということになると思う。 結論。 親切とは、見返りを求めるコミュニケーションであり、 それを完全に回避することは出来ない。 また、コミュニケーションが不全か否かは、お互いの社会的基盤に依る。 円滑に進めるためには、相手の言動をつぶさに見た上で、 求める見返りを最小限にし、与える見返りを最大限にする、しかない。 決して、『親切』をする側の、一方的な行動ではない。

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哲学。

最近、少し学問としての哲学に興味を持ちつつある。 昔は、当たり前のことをぐだぐだと考え続ける、 そんな下らない人々、というような印象があった(極端に言えば)。 でも、少し見てみると、確かにそうなんだけど、 感覚のまま、よく分からないことをなんとか、言葉にし、もしくは感じ、 何とか形にしていこうという姿があった。 言ってることは、共感できる部分も在れば、未知の部分もあるけど、 少なくとも、一般にとらえられているような、 半ば占いと混同されてしまうような、『分からないことを説明する』学問ではなく、 きちんと、体系に基づいた、『科学的』な学問なのだ、と実感した。 正直に言うと、どこから手を付けたらいいのか皆目分からないけど、 多分、2005年前半のテーマはそこら当たりになるんじゃないかと思う。 そういえば、哲学をかじった人の発言で鼻につく言い回しがある、 『誰々はこう言ってるよ、』 と、あたかも自分の思想のように先人の言を披露し、 相手が知らなければ蔑み、優越感に浸る、 そういう、半ば『内輪でしか通用しない言葉の振り回し』感が、 哲学というモノにはついて回ると思う。 はっきり言って尊敬できない部分だが、 学問としての歴史を考えると、それも無理もないかな、と思う。 哲学は、明らかに一人の哲学者で完結するものではなく、 物理学のように厳然たる真理があるわけでもなく、 先人の閃きにヒントを得て、自分なりの言葉を紡いでいく、 そういう学問であり、 既に誰かが通ってきた道に関しては、 その言葉を引用することでルートを省略し、 違う視点を切り開く、そういう学問なのだろうと思う。 逆に言えば、自分の興味を引かなければ、 どんなに偉大とされる哲学者も、自分とは無関係、そういう世界な気がする。 でなければ、先人が一生かけて紡いだ思想を、 同じ人間が消化できるわけないもんね。 いろんな人の思想をのぞき込んで、自分に合う何かを探したいと思う。

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