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「真実を見つけた!」とは何か
人というのは弱いもので、常に自分の拠り所を探して生きています。その最たるものが宗教であり、それが正しいと信じることで自身を保っている人は全世界に何億人もいます。日本では信仰を持つ人はあまり多くありませんが、明確な宗教の代わりに道徳であったり教えであったり「常識」であったり、社会のモラルや人間同士の共通意識をベースにやはり「自分は正しいことをしている」という気持ちを持って生きています。順調なときはそれで良いのですが、人生で何か上手く行かないことがあったとき、自分のキャリア形成に行き詰まったり、人間関係が上手く行かなかったり、病気をしたり、加齢でメンタルやフィジカルが弱ったり(更年期とか)、ふとしたことから自分が信じてきたものが間違っていたのではないか?と思うこともあるでしょう。
通常であれば「宗旨替え」までは行かずに自分の信じるものの範囲内でやり方を変えることで対処していくものですが、メンタルに余裕がないときなどにふと、信じてきたものを否定してみようと思うことがあります。
あれ、ずっと正しいと信じてきたことを否定してみたら、今の自分の状況がすべて説明できるようになった!自分が正しいと思っていたことは実は正しくなくて、(今の自分を肯定してくれる)この「拠り所」こそが自分にとっての真実なんだ!
これが「真実を見つけた!」です。
大体の場合、思い込みなんですけどね。新しい「真実」も、それまで信じてきた「拠り所」も。あるのは現実だけですから。
自分の過去を「他人」のせいにして片付ける
真実を見つけた人間が次に着手することは、今の自分の状況に合致する「新しい拠り所」を過去の自分に敷衍して適用していくことです。もしかしてもっと以前から、自分が子供の頃から自分は間違っていて、今自分が見つけた「真実」を子供の頃に手にしていればもっと違う人生が歩めたのではないか?まあ、そう想う気持ちも理解出来なくは無いです。僕だって中学や高校でもうちょっと楽しい学生生活を送れたよなと思うことはあるし、きちんと大学の授業に出ておけば良かったかもばと思うこともあります。
ただしかし僕は「真実を見つけた」人間ではないので、それも自分であり、その時の自分が選び取ってきたものであり、そういう自分がいたからこそ今自分が出来ていることがあると感じています。戻れるっていわれたら戻るかも知れませんが、後悔はありません。
ただしかし僕は「真実を見つけた」人間ではないので、それも自分であり、その時の自分が選び取ってきたものであり、そういう自分がいたからこそ今自分が出来ていることがあると感じています。戻れるっていわれたら戻るかも知れませんが、後悔はありません。
一方で、自分の肯定(本当は否定なのだけど)を始めてしまった人にとっては、過去の自分は考えれば考えるほど今の自分の価値観に合わない存在になっていきます。そして「そうか、アレは当時の周りにいた人間に騙されていたんだ」とか、「あの当時の自分はどうかしていたんだ、自分1人でそんなことを考えるはずはない」などと考えるに至ります。
「他人」(今の自分とは違う当時の自分というのもある意味で「他人」)が悪いのであって自分が悪いのではない。今自分が良くない状況にあるのは自分のせいではない。あいつが悪いんだ!
「八つ当たり」の対象になった人は気の毒ですが、ある意味で病気なので仕方がありません。
「他人」を利用するのはその「他人」に「甘えて」いるから
気付いているかどうかは解りませんが、手放しで誰かを否定するという行為は、その「他人」に甘えているからこそ出来ることなんですよね。この「他人」には何を言っても良いとか、自分の判断で「他人」の良し悪しを決めても良いだとか、そういう甘えた考えがあるからこそ過去の自分を美化するという行為に「他人」を利用することに躊躇が生まれません。だからといって救いがあるわけじゃありませんが、通常、自分の間尺に合わない「他人」を攻撃する必要はないんですよ。甘えているから殴れる。
そしてこれ、皆さんがよくご存知のヤツです。そう反抗期ですね。30歳になっても40歳になっても50歳になっても60歳になっても、反抗期ってあるんですよ。
反抗期とは、甘えです。
「現実」は常に真ん中にある
昔からの僕の持論なのですが、一般的に「真実」と呼ばれるものが偏って存在することはほとんどありません。誰かが「白」と言い、誰かが「黒」と言うことがあったとして、それが実際に「白」もしくは「黒」であることは少ないです。濃淡はあるにせよ、現実的にはそれは「グレー」であって、見え方によって、もしくは自分が「見たい」と希望する事柄によって、「白」にも「黒」にも見える。現実なんてのはそんなもんです。先に述べた「真実」の「真実らしさ」についても同じです。自分を肯定するのに都合が良いので、その真実らしさを全力で受け入れようとするのはよくわかるのですが、現実的にそれが真っ白ということはありません。もしそれが真っ白に見えるのだとしたら、それは、付随して存在していた黒い部分を忘れているか、見ないようにしているだけです。
もちろん逆も同じ。自分を歪め否定してきた「他人」を真っ黒な存在として認識しているのだとしたら、それは現実的には、付随して存在していた白い部分を忘れているか、見ないようにしているだけです。
客観的な根拠が薄く、自分の記憶や感情のみを根拠として「真実」を断定している場合、それは大抵の場合、世迷い言です。現実はそんな偏った場所には存在していません。
自分がそういう感覚になったとき、「そんなに自分に都合良く現実が存在しているものかな?」と正常な人間なら感じます。そう感じなくなっている人が「真実を見つけた!」と叫ぶのであって、そして様々な自己肯定を始めるのであって、つまり、正常ではありません。
自分が正常かどうかも判断出来ないでしょう。そりゃ聞く耳も見る目も持たないよね。
目を覚ませとは言わないが現実をきちんと見つめなさい
さて、「真実を見つけた!」と安易に喜ぶ人間がどんな状態かを書いて来ました。心情としてはそういう人たちに現実に立ち返った上で真に前を向いて歩き始めてほしいと思うのですが、一方でそれが最愛の妻だとか子供とかであるなら僕も全力で考えるところ(我が家に人間の子供はいませんが宵さんに対しては思います)、そうでなければ正直好きにすれば良いよねとも思っています。
なぜかと言えば、そういう状態にある人をサポートするためにはもっと近く寄り添わなければならないからです。状況を改善させようと「結果として現れている症状」の方の今や過去の自分を否定したり「他人」を攻撃したりすることを止めてもあまり効果がありません。根本的には、否定しなければならない今の状況だとか、メンタルの状態、フィジカルの状態、そういった原因を取り除く必要があります。そしてそれはすぐ側にいる人間にしか出来ません。
そして君は次々と騙される
だから僕からそんな彼らに「目を覚ませ」と直接伝えることはありません。根本的な原因を取り除かないまま、今の「真実」を手放したとしても次の「真実」を求めて彷徨うだけだからです。ある特定の思想を持った人たちの中に、そういう人をたくさん見てきました。一度ブラックリストに乗ると、親和性のある「真実」に次々と取り込まれていきます。そうして彼らは延々と騙され続ける。本人は幸せそうですが、果たして誰も踏み台にしてこなかったか?
自分の状況が整うまでは今手にした真実を手放さなくても良いですが、現実はきちんと見つめてほしい。忘れていることがあるならきちんと整理して思い出してほしい。本当に自分の意思なく他人の言いなりだったか?自分に出来ることは無かったか?過去の自分を否定することなく、これからの自分を肯定することが、本当に不可能なことか?
そして、自分が必ずしも正しいとは言えないと気付いたら、謝ったら良いんじゃないですか。ドラマの中で雪丸もそう言ってましたよ。