中抜きが問題っていうか無能なヤツが業務管理してるってことなんだと思う

三次下請けのイラスト
Togetterで見掛けたこれ。最近思ってたことにマッチしてたので思わず反応






中抜き諸悪の根源説

日本が衰退した最大の原因は「中抜き」ではないか説

日本が衰退した最大の原因は「中抜き」ではないか説 – Togetter




その後の反応は様々なんですけど、なんというかな、「中抜き」っていう表現がデカすぎて「そうとも言えるしそうではないとも言える」ぐらいな話なんですけど、これを敢えて伝統的な悪者的なイメージで捉えたとした場合の「中抜き」とは、例えば多重下請けとか複雑な仲卸とかそういうのになるわけですよね。そういうのに限っていうならば、まあうん、あるよね。とは思います。



業務管理は必要だよ説



一方でこういう意見もありまして、いわんとするところは「間に入ってるというだけで邪魔者扱いされてしまうと、プロジェクトそのものが成り立たなくなる」みたいな話でしょう。

良くある話としてはマンガや書籍の「編集者」というやつ。編集部からやってきて原稿もらって帰るだけの存在だと考えると(手塚治虫とか昔の漫画で描かれる編集者像)、その人の人件費って切手代ぐらいの価値しかないんじゃないの(だから削減していいんじゃないの)という気になるけれど、実際には構想から完成まで作品の制作に深く関わっている存在であり、編集者を除外すると作品のクオリティも進捗管理も上手く行かなくなるって言うね。確かにそういう人を排除するのは間違ってる。


僕は今「フリーランス」という名の準業務委託契約で働いてますが、間に入っている仲介業者の取る手数料はまさに中抜きではあります。特に企業にとってはそうですよね。僕に提示される報酬が例えば月50万だったとしても、企業が仲介業者に支払っている報酬額は50万じゃなく70万とか80万とかなわけです。ただ人手不足の中で自力で探すのが難しい企業というのはたくさんあります。また本来の報酬から抜かれているエンジニア側としても、面倒な代理人業務を全部丸投げしているので、必ずしも全部が全部、要らない額だとはならない。個人の感想ですけども。まあわかる。



最近思うこと

先の岩槻さんの「中抜き」が大きすぎるのに対し、くっすんさんの「中抜き」の捉え方が限定的すぎるのでこういうすれ違いが起きてしまったわけですが、実際には両方あるよねという話であり、捉える人がそれぞれの立場で「中抜き」を捉えて話せば良いよねという話でもあります。

で、僕の場合でいえば少し書いてるけど現在参画しているプロジェクトがスムーズに進んでないのは誰のせいなの案件。

登場人物または企業

  • エンドクライアント:A社
  • 仲介受託企業:B社 / 担当者:Pさん
  • 開発会社:C社 / PM:Qさん
  • C社のプロジェクトに参画しているエンジニア:僕


通常の図式であれば、C社はB社の下請けで、B社がA社から開発を受注して要件定義などを行い、C社に対して業務範囲を特定して開発を依頼するというのが筋なわけですけど、B社の関わり方というのがちょっと特殊でB社のポリシーは「下請け業務をなくす」。つまりC社は形式上はB社の下請けではなくB社の紹介でA社とマッチングした開発会社ということになっています。B社の仕事はA社から開発の話を聞いて業務範囲に分割してそれぞれに最適な企業を連れてくるというお仕事。なので、本来であればB社「A社とC社とでよろしくやって下さい、要件定義も任せます」みたいな感じになるはずなんですよ。それならそれでほとんど直接契約みたいなもんですし、C社としても頑張ってやりましょうという話になります。


以上がステークホルダーの「建て付け」なんですけど、実際にはC社とA社のやり取りの間にB社の担当者であるPさんが入ってくるんですね。ぶっちゃけて言えばA社の技術担当と僕ら現場のエンジニアが直接喋れば早いんですけど、C社のPMであるQさんが各方面にすごい気を遣って、開発チームの話をとりまとめてまずPさんに相談し、PさんがそれをA社に上げるみたいなことを延々とやってて、しかもPさんは週に3日しか来ない(他にもたくさんプロジェクトを抱えている)ので、簡単な質問であっても往復に1週間ぐらい掛かるんですよ。飛脚かよ。


B社およびPさんの存在というのは契約上は業務管理の為に必要ということになるんですけど、現状のようにまったく役に立っていないのにコストばかり掛かるという状態であればこれは「中抜き」と呼ばれることになります。もちろん僕が知らない部分でのB社の役割(提案をプロジェクトにまで落とし込むとか業務範囲を明確にするとかコストを見積もるとか)があって、C社にとっては不要でもA社にとっては有用であるかもしれないのでなんとも言えませんが、現場の意見としてはそうです。不要とは思わんけどもうちょっと何とかならないのかと。



マネージメント層が薄いからじゃないんですかね

以上をまとめると、日本でコストが無駄に掛かっている理由は、業務管理として中間に入っている人たちのマネージメント力が低いために本来求められている役割を果たせず、「中抜き」といわれてしまうことなんじゃないのかなと思います。きちんとマネージメントしてくれるのであればクライアントではないけれども現場に入るわけではないみたいな存在の人だって有用だと思うんですよ。作家さんと編集者が共同するように、現場が全部やるのは大変ですからね。そういう恩恵を受けている人は「中に入るのが悪いわけじゃないよ」という意見になるでしょう。


同様に「中抜き」を強く感じる人たちが多いのだとすれば、それは中に入っている人が能力的に劣っていることが多いという意味なんじゃないかなと思います。コストに見合うだけの仕事をしていない。もし異論がある人がいるのであれば、例えばB社のPさんとか、自分の果たしている役割とスキルについて見直してみても良いんじゃないでしょうか。「中抜き」と言われるか言われないかは自分次第だと思います。



おまけ:時代の流れで価値が減るものも

ちょっと差し込む場所が見つからなかったので最後におまけで。


能力自体は問題がなくても、例えば食品の卸業みたいに時代の流れに伴って必要性が低くなっていく役割もありますよね。冷蔵技術や物流、通信手段などが発達したおかげでいまや産地から直接取り寄せるのも難しくなくなりましたし、間にたって差配するみたいな必要がなくなってきました。

書籍の取り次ぎもそうかなあ。売上の小さい書籍は今でも取り次ぎが大事かも知れませんけど、ある程度名が売れている書籍やマンガや雑誌はAmazonなり自社サイトなりを通して直接販売可能でしょう。音楽系の卸業も、ほとんどがデジタル化されてアーティスト本人やレコード会社から直で配信されるようになって必要性が薄まりました。新聞発行部数が減ったことで必要な新聞販売店は減りましたし(身の回りでもここ数年で何軒か潰れました)、デジタル配信によってそもそも必要なくなりつつあります。

が、それでもそこで食べている人というのは存在しているわけで、その人たちを食わせるために存在するコストってのもあるわけですよねえ。そこに目利きだとかなんだとか価値を持たせようとするわけですけど、飲食における個人的な経験で言うと、市場からの仲卸が入れる魚や野菜が必ずしも良いとは限りませんでした。むしろ良いものと悪いものを抱き合わせて持ってきたり、悪いものを大量に送ってきたりする(使えないものは捨てて下さいという意味)ので、最終的には自分で取り寄せるのとコストも質もあんまり変わらないことになったり。相当な上得意相手でない限り、卸の仕事ってそんなもんです。


もしかするとこういうのもだんだん「中抜き」と揶揄されるようになっていくのかも知れませんね。