きねとうすのけんか
先生に取り上げられて授業中に発表されたんですが、そのときこのフレーズを読んだ同級生たちから「最後に「だ」を付ける方がいい」という意見が集中しました。まあ確かにね、文章としてはその方がいいかも知れませんが、僕は全く納得出来なかったので、四面楚歌の中「いえ、これは「だ」がないから良いんです」と自分の意見を押し通しました。それこそ僕が大事にしていることそのものであり、みんなの意見を受け入れるという選択肢はありませんでしたね。そういうとこ、昔から変わりません。
何を気にしたのか
当時、何を気にしたのか正確にはもうわかりませんが、その時からずっと心の中にあったことを思い出しながら書いてみると、詩としての描写表現において説明的になるのが嫌だったというのがまず1つ。それからこの詩はこのフレーズの前後に展開があって、「だ」を付け加えるとそこで流れが切れてしまう。だからあえて「だ」を付けることなく、音が足りない、読み手が半拍分の空白を足すようなリズムで読んで、区切りながら流れるような感じにしたかったというのがもうひとつです。感覚を言語化して説明するとすごい理屈っぽくなりますが、もちろんそんなことを意図して作ったわけではなく、その時感じていたことは「テンポが悪くていやだな」です。詩なんだからテンポ良くポンポンポンと読んでもらいたかったんですね。わかってもらえなかったなあ。笑っちゃうぐらい誰にも賛同してもらえませんでした。わかってねえなあ。
詩だけでなく何にでも適用出来ます
告知文であったり張り紙であったりプレスリリースであったり、読みやすいテキストにはたいていの場合、テンポがあります。語句の順番であったり、助詞や助動詞の有無、表現の簡便さ、そういった工夫があってテンポ良く読めるテキストが読みやすいテキストです。以前ダメ出しした、とある店の店頭に貼り出された告知文も同じ。意味のない表現が繰り返し出てきてテンポが悪い。「正しい日本語」じゃなくてもいいから恥ずかしくない日本語を使って欲しい – NOBODY:PLACE
こういうのって感覚ではあるけれど、詩とは違って皆が共有出来る感覚だし、意識すれば誰でもわかるようになることだと思うので、意識してみて欲しいなあと思う次第です。大事だと思うんだよなあ。