このような「若いときにひどい目にあった自慢おじさん」が管理職になると往々にして、部下や後輩に対して壮絶なパワハラや過重労働を強いることが多い。ちょっと前、十代の女子体操選手をヤカラ調に叱責して、横っ面をひっぱたいていたコーチが世間から叩かれて、「自分も若いころにそのような指導のおかげで成長した」という主旨の釈明をしたが、暴力やハラスメントを受けてきた人間は、自分が指導・育成する者にも暴力やハラスメントを強いるものなのだ。
「若いときにひどい目にあった」自慢のおじさんは、なぜヤバいのか (1/5) – ITmedia ビジネスオンライン
筆者も仕事柄、40~50代の大企業に勤める管理職の方と多くお会いするが、自分が若いときに受けてきた過重労働やパワハラを、「部活のシゴキ」のように嬉しそうに振り返る人が思いのほか多い。そして、そのような人に限って、「最近若いのは根性がない」とか「やっぱり死ぬほどつらい目に追い込まれないと人間は成長できないよね」なんてことをのたまうのを何度も耳にしてきた。
自分がいた体育会は、パワハラであったり上下関係であったりということに関してはとてもソフトなところで、礼儀さえ守れていれば特に強制されることはなかった。でも一般的な印象ではまだまだ「体育会系」というのは綿々と続いていて、これもまた同じ構造。PL学園の寮生活の話は正直にいって聞くに堪えない。どんな結果を出していようと高校生があんな生活を強いられていたんだとしたら、そりゃ学校側も廃部にするよなと思ってしまう。
世の中には組織を変えようとするヤツと思いもしないヤツってのがいて、変えようとするヤツというのは、どうあるべきかというのをきちんと見てる。PL学園を元にした漫画「バトルスタディーズ」が好きなんだけど、作中、狩野笑太郎が権力を得て様々なことを変えていくことで引き続きあるべきことと、必死で守ってたけど実は要らなかったこととが峻別されていく。彼のような人間がいると、負の連鎖を断ち切ることが出来るのだけれど、逆にいえば人間というのは流されやすいもので、彼のような人間がいない限り同じことが続いて行きがち。
大した結果を残せていなかったのに後から見返して成功だったと思ってしまう「すり替え」とか、失敗はしたけれどアレさえ無ければ成功したはずだという「思い込み」、それらを基礎にした「成功体験」、手段と結果の関係性を過剰に捉えすぎることによる「手段の固着」。これらの要素が揃ったときにこういうことが起きるんでしょうね。
育児のようにある意味失敗できない取り組みであれば、悩んだ末に自分が知っている「教育」にすがるというのもあり得るのかも知れない(良いとは思わない)けれど、部下の育成とか教育とかだったら、ある程度長い時間掛けて繰り返されることなわけで、上手く行かない時期があったとしても繰り返す中で確率を上げていくということが出来るはず。でも、自分の失敗を「最近の若者は俺たちが若い頃と違う」という理屈で言い換えているとそれが見えないんだよなあ。
もちろん、自戒の話です。
自分で言うのも何だけど僕はあんまり成功体験とか当てにしないタイプだし、自分の論理が上手く適用できないことを相手のせいにするタイプでもないので、たぶんこの手のパワハラはしていないと思うんだけど、でも、おじさんというのは若い頃は許されたちょっとした「粋がり」が、すぐにいやらしく目立ってしまうものなので、年齢を重ねるうちに「今までは許されていたと思っていたけど、そうではなくなった」ことというのはあると思うんですよね。極端にいうと、大学4年生のアルバイトが2年生にしているダメ出しと全く同じセリフを僕が使うとパワハラになる的な。こういうのを避けるために必要なことはいつも同じで、目的をきちんと捉えて相手を見ること。手段を目的化することなく、どういう結果を得るために何をするかをきちんと考えるようにすれば、「「若いときにひどい目にあった」自慢のおじさん」みたいなコミュニケーション不全にはならないと思うんですけどね。
もしくは「「若いときにひどい目にあった」自慢のおじさん」がそうなってしまっているのは、ある意味で若いときに酷い目に遭った後遺症なのかも知れないですね。そうしていないと自分を支えていられない。それだけ取ってみても、そういうことはしちゃいけないんだなとわかる気がします。