人に解ってもらうのは諦めた方が良いんだろうか
自分の意見を上手く相手に伝えられないことがあるのは自覚してる。理解出来ない相手が悪いんじゃなくて、その相手が理解出来るような言葉や表現を選択出来ない僕が悪いんだろうな、とも思う。誤解を生む表現をしてしまっているときもあるかも知れない。僕が特別複雑に出来てるんじゃなくて、僕は僕を複雑な言葉、または僕にしか解らない言葉でしか伝えられないんだと思う。僕が「本当に理解して欲しいコアな部分」を解りやすく伝えることが出来ないんだと思う。本当に理解していれば安易な言葉で伝えられると言うし、僕自身の理解も浅いんだろうなと思う。
相手に理解して欲しいときには「理解していないな」と思う部分に力点を置いて、丁寧に説明を繰り返すことがある。それで上手く行くときもあれば、上手く行かないときもあって、上手く行かないときの代表例は「くどいよ」「話長い」と言われること。まあそれはその通りだから仕方ないし、「もうお前の話なんか聞きたくない」ということだから、「理解されなかった」という結論で引き下がる。
しんどいのは相手のリアクションが話からずれていて、いやそんなことじゃなく僕はこういうことを感じたというのを理解して欲しいんだ、と説明を繰り返そうとしたことに対して、「自分の意見を曲げない」「我を通したがる」「人の意見を聞こうとしない」と捉えられたとき。僕は相手の意見を否定したいわけじゃなく、まず、自分が理解されていないから理解してもらいたいだけなのに、その単純な思いが理解してもらえない。
まあ多分「もういい加減その話聞くの面倒なんだけど?」ということか、「興味ないけどこんな感じで相づち打っておけば良いだろ」と言うことなんだと思う。もしくは「お前の言うことは解ったよ、こうだろ?」ということかもしれない。そうじゃないんだけど。僕は純粋に自分の考えを聞いて理解して欲しいだけなのに、その自分なりに努力した上での行動を、「理解出来ない」と言われるだけならともかくその上、「人の意見を聞かない」と言われるのはとてもしんどい。
ま、今に始まったことじゃないけどさ。
僕はいつもそんなだったよ。
小学校のときも中学校のときも高校のときも、大学のときでさえそうだったよ。
多分、他人に僕を理解してもらおうと思うのが間違っているんだろうなあと思う。ふと思いついたことや感じたことを、安易に他人に喋るべきではないのかも知れない。僕にはそれを上手く相手に伝えるための言葉がないから。「理解されている」と言うことに対して神経質なのかもしれない。
そろそろ、諦めて、自分以外の人間に対しては当たり障りのない言葉で接し、主張なんかするべきではないのかもしれない。安西先生は「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」っていうけどさ、いいんじゃねえの?試合終了でも。バスケットボールの試合が終了しても、僕の人生が終了するわけではないからさ。理解してくれるって期待しなければ、体面の良い言葉はいくらでも喋れる。僕だってただ36年も生きてきたわけじゃないからさ。
そうやって言うとたいていの人は、理解出来ない自分を恥じるのか知らないけど、「丁寧に説明して欲しい」って言うんだけどさ、しょうがないじゃん?伝わんないものさ。無理なんだと思うよ。