仕事をしながらふと思ったのだけど、わずかに就職活動をしていたときに考えていた自分のPRは、実際の仕事では当たり前すぎてPRとしては全く役に立たないものだったな、とか。「柔軟な発想が出来る」とか「論理的な思考が出来る」とか。そういう「マジック・ワード」みたいなものは、実際の仕事において大きなメリットになる…というよりはない奴は使えないという程度のものであって、その個人がそう主張してそれでその人材が欲しくなるような要素でもないな、と。
書いてあれば無いよりかはマシだと思うし、きっとそういう事を現代の就職活動でもやってるんだと思うけど、まぁなんというかガキだったというか世間知らずだったというか。未社会人だったから当たり前なんだけどね。
さらに高校生の頃を振り返って自分がどんなこと考えてたかといえば、ご多分に漏れず「漢文なんか一生懸命勉強しても将来役に立たないよなー」とか。古文とか漢文とか確かに文法習ったところで役には立たないけど、今考えるとあれってかなりの教養の塊だよね。大人になってから改めて「徒然草」とか「平家物語」とか読まないけど、兼好法師も結構ぶっちゃけた面白いこと書いてて、見た目の取っつきにくさで回避しちゃうのはいかにも惜しい。
さらにさらに中学生の時にどんなこと考えてたかといえば、学校の制服がどうたらとか校則がどうたらとか。僕が通ってた中学は、校則上制服というものは存在していなくて、女の子はみんな私服だったんだけど、男は慣例的に黒い学生服を着ることになってて、毎年何人か私服で通す奴がいるみたいな感じで。僕は学生服で通ってたんだけど、それは別にそういう意志があったわけではなくてもちろんただ「なんとなく」。校則がそうなっているのに慣例に縛られるのは気持ちが悪い、という思いもありつつ、私服を着て目立ちたがりだと思われるのは嫌というのもありつつ。
その辺で実は結構葛藤があったんだけど、今考えてみれば別に私服着るのが好きだったわけでもないんだし(どうせ母親が買ってくれた服だし。センスは良いけど自分で着たいと思って買った服じゃないよね)、楽で良いわーってもっと気軽に制服着てれば良かったよね(笑)
結局こういうのって要するに「子供」ってことなのよね。余裕がない。色んなことに。
今だったら昔に比べればまだ余裕があるから判断できちゃって、「そういうのマジでガキに見えるからやめろよ…」とか思うんだけど(マジガキ?)、本人にしてみればそんなのわからんもんねぇ。自分だってわからなかったし、もしかしたら今でも同じ環境に置かれたらわからないかも知れないし。
あまり社会人的ではない考え方をしてる年下の人間に対して、それはガキだと指摘するのは、まぁなんつーか、自分が通った道だけにもの凄く簡単で、自分としては「俺、的確なアドバイスしてる!」みたいな気分にもなれるんだけども、
でも考え方を変えてみればさ、その当時にそういう考え方出来るってのはその年代の特権だと思うんだよ。考え方の奇異さに気付かなくてそのまんまナチュラルに中二病な人もたまにはいるけど、大体の大人は気付いてて、その気恥ずかしさから若者に説教したりしてるわけでさ。若い頃のその考え方があって、今だと思うのよ。だから、そういうマジでガキっぽい考え方ってのを一回通っておかないとダメなんじゃないかなと。大人が自分の気恥ずかしさでそれを矯正しようとしちゃダメなんじゃね?
いや、例えば最初に書いた就職活動の話で言えばさ、今の僕がもっと人採る側が気に入るような言葉を当時の自分に吹き込むとかすれば、当時の自分は就職活動がもっと楽に進んでハッピーだろうし、今の自分は無駄に歳取ったんじゃねーぞっていう自尊心が満たされてハッピーなんだろうと思うんだけどさ、
それでもやっぱりぼくはそんな大人になりたくないなぁ。
…あ、同年代、年上の人間に対しては遠慮しませんけどね。
お前らいい歳こいて何やってんだというのが半分、今の僕の年代に許された特権(若気の至り:青年版的な)だろうなというのが半分。うん。