読点を減らすようにしてます。

多分、手癖と言うことなんだと思うんですが、
僕の文章って『読点(、)』が多いんですよね。

自分では文節を分けるところや強調するところで自然に挿入してるつもりなんですが、
これ、気になると凄く気になるんですよね…


例えば何か1つ引用してみると。

そしてその内容は筆者を非常識だとただ嘲るのではなくてここ微妙なんだけど
APが使えなくて文句を言っている部分…ではなくて
AP利用可能だからマクドナルドにいさせろよという感情が見える
そこが非常識だと言っているのね。

もしその感情がなければマクドナルドに問い合わせる必要はないしね。
Yahoo!にそんなこと書いてなかったじゃないか!といえばそれで済むはず。

だから僕はいやそれは正しいの?と書いているわけです。
いわばマクドナルドと筆者の間の関係の話。
ちょっと2番目も絡んでるか。
 

大体半年くらい前のエントリから選んでみましたが…読点だらけです(苦笑)
特に3番目の段落とか酷いな。

これをね、音読せよと言われたら、多分読点のあるところで切って喋ると思うんです。
文字にしてみると鬱陶しいけど、多分音読するときはこれくらい切った方が、
言おうとしてることは伝わりやすいと思う。
相手の反応を見ながら喋ることも出来るし。

でも、テキストで書くときはそれがむしろ逆効果になるんだよね…
何か文章のリズムが悪くなって、意味の統一感が掴みづらくなる気がする。
今まで散々それで書いてきて急にこんなこと言い出すのもどうかと思うけど、
実は随分前にこの文章を読んで。


読点に頼ることなく純粋に言葉のチカラだけで文章を組み立てていくチャレンジに挑むことになります。

これにならって今回は読点を一切使わずに書いてみました。結果として次のような発見が得られました。

 ・普段いかに読点に頼っていたかを思い知らされる
 ・読点によって一文が長くなっていたことに気づかされる
 ・接続詞を避けるようになる

明らかに違いを実感しました。いつもなら「読点パワー」で一文にしてしまうところを二文に刻んでいるのです。

「しかも」「それゆえ」といった接続詞も避けられます。こうした“マークアップ語”は文章自体の構造が整理されていれば本来は不要であるものでしょう。そういう意味で接続詞の便利さに改めて気づかされました。

ケースバイケースですが確かにこの書き方のほうが読み取りがしやすい文章になった気がします。
 


正直に言わせてもらうと、上のテキストは別に読みやすくはない。パワーも特にない。
実際にこれを読んでも取り立てて何の印象も抱かず、
っていうか結局一文が冗長になってるだけじゃんと思っただけでした。

それでも頭のどこかに、読点の使い方に関するアイディアが残っていて。
自分でもやってみた結果、FPNの問題は読点ではなく筆者の問題なんだと分かりました。
問題とは、

  • 必要な場所に読点がない。
    • 実験的な意味合いだからでしょう。
    • そもそも読点を使わない、というのはテキスト改善の第一歩でしかない。
  • 読点を抜いても結局一文が長い。
  • 力点が分かりにくい。

というところでしょうか。


逆に賛同できるのは、

  • 普段いかに読点に頼っていたかを思い知らされる。
  • 多いと、読み手が論理を追いづらくなることもある。

という感じ。



ブログ向け読ませるテキストとしてのベターな案は、
ただ単に読点を抜くのではなくて、
『装飾を読点に頼り切らない』ではないかと。


具体的に先ほど上げた僕の文章を変えてみると、

だから、僕は、いや、それは正しいの?と書いているわけです。
いわば、マクドナルドと、筆者の間の関係の話。
あ、ちょっと2番目も絡んでるか。

 ↓

だから僕は『いや、それは正しいの?』と書いているわけです。
いわば“マクドナルド”と“筆者”の間の関係の話。
あ、ちょっと2番目も絡んでるか。

こんな感じになるかな?


人が文章を読むときに息継ぎをするポイントは、
必ずしも読点ではない、と。
それは1つの候補と言うだけであって、
テキストを読むリズムを作るのは読点も含めた様々な部品。
それがテキストの内容と相まって、
読みやすいかどうかが決まるんだろうなと思うのです。

読点ごときでメソッドとか言っちゃって思考停止してると、
一生読みやすい文章は書けません。
んなもんメソッドなんかじゃないやい。



まーそんなことを考えて、テキストから読点を減らそうとしてるんですが、
手に付いた癖っていうのはなかなか直らないですね。
つい読点にまみれたテキストが出来上がっていて、
あとで修正かけることになります。

なかなかねー難しいですね。