高校野球の不思議。

日本高野連は17日、第79回選抜高校野球大会(23日開幕・甲子園)に出場する市川(兵庫)で2年生部員の喫煙があったと発表した。持ち回りの審議委員会と大会運営委員会で審議し、野球部の活動と直接関係がないため、応急処置として大会への出場を認めた。同校は部長を沖永聖彦教諭から牛尾昌宏教諭に変更することを届け出た。この部員は大会のメンバーには登録されていない。
 

野球部員に限らず、高校生の何らかの“不祥事”は、たまに耳に(ないしは目に)する。
喫煙、飲酒、万引き…などは、決して許されないことだし、
然るべき処分が科されるべきだけど、
1つだけ僕が納得できないこと、
それは、なんで連帯責任を取らなくちゃいけないの?ってこと。
それは過去に“不祥事”を起こした、高校野球以外の他の組織、
例えば、京都大学のアメフト部とか、早稲田大学の野球部とか、でも同じ。


連帯責任を取らせる理由は何だろうか?

高校野球でよく言われることは、
高校野球は教育の一環だから、チーム、学校の監督責任を問うみたいなことだ。
監督責任については分からなくもないが、しかしそれも結局は個人の責任ではないか?
(組織として関与している場合を除く)

チームの監督責任は監督なり、部長の教師なりにある。
学校の監督責任は、校長なり、理事長なり、教育委員会なりにあるだろう。
未成年という点で言えば、親にも十二分に責任がある。

直接的に悪いのは、その野球部員であって、
その野球部員が起こした個人的なトラブルに対して、
無関係な部員を含むチーム全体が責任を取る必要性がよく分からない。


もし、教育の一環だというのであれば、
その野球部員を退部(または停部)させ、
然るべき処分(退学、停学、少年院送致など)を下す…それで十分じゃないか。
それで、責任を負うというのはどういうことかをしっかりと教える。
何をしても自由だが、責任は取れ、というね。

そして同時に、その処分が適切に科された部員に関しては、
同罪に関しては、それ以降は責任は問わない。
なぜなら、もちろん道義的な責任はずっと残るものの、
罪は処分で精算された、と考えるべきだし、
責任を果たした部員に、開く道は完全には閉ざすべきではないから。


現行のように、個人がしたことを組織全体で負うシステムは、
さっきも書いたけど、その個人の責任が薄まる。

これは日本の『悪習』だと思うのだけど、
こういう責任を『連帯責任』として無関係の個人を含む組織全体に負わせることで、
責任の所在を曖昧にし、個人への責任を軽くする。
それに、個人として罰されることがない限り、その負い目は一生残る。


それが教育と言えるのだろうか?

多分僕と、高野連とでは教育方針が異なるのだと思うのだけど、
必要なのは晒し上げではなくて、あくまでも個人に対する教育だ。
そのためには、責任をきっちり個人に負わせるべきだと思うんだけど…