やはり一番に感じることは、
考えや思いをきちんとヒトに伝えるのは、
凄く難しい、ということなのね。
100%に近づけようと努力しても、
必ず、そうはならない。
* * *
僕自身は、『言葉』で考えているのではないと思う。
まず何か、感じることがあって、
それを、誰か(他人にせよ、自分自身にせよ)に伝える必要があって初めて、
言葉という形を取って、外に出している…そんな感覚がある。
弾さんがエントリの中で、
と書かれているのだけど、「言葉で表現する」こと即「言葉で考える」ことを意味しているのだろうか?
少なくとも、私の考えは「文字列」ではない。もっと多次元の「もやもや」だ。私にとって「言葉」とはあくまでそれを「シリアライズ」(serialize)したもので、それを聞くということはいちいちそれを「デシリアライズ」(deseriarize)して、構文解析(parse)して….というまだるっこしい作業を伴うものだ。少なくとも「直感」とはほど遠い。
それが凄くよく分かるような気がする。
僕にとっての、『言葉化』というのは、
(言語化、でも良いけど、哲学的な定義が既にありそうなので敢えてコレで)
シリアライズよりももっと不正確なもの、
例えば、JPEGやGIFのような、非可逆的な圧縮技術であり、
画像の鮮明さや、素材のレイヤーなどを含めて、
正確に、100%、元の絵を戻してもらおうとは思っていない。
もちろん、なるべく圧縮率が低いやり方で渡したいのは山々なのだけど、
それを送受信するには莫大なコスト…時間とか、関係とか、がかかる。
よほど特別な状況でなければ、やってられない。
以前、どっかの文章で書いたのだけど、
ああ、この辺だ(文章の趣旨自体は違うけど)、
NOBODY:PLACE – MUTTER: Stare.
何か感じていることを伝えるには、その周りをグルグルと歩きながら眺めて、
1つ1つ言葉に置き換えて行かなくちゃならない、
相手にも、出来れば、それとは逆回りにグルグルと歩いてもらって、
それが何かを組み立ててもらいたい。
もちろん、それは出来ない相談なのだけど。
だから、非可逆になる。
あと、この辺でも述べているが、
NOBODY:PLACE – MUTTER: 『自分は自分』という考え方について。
NOBODY:PLACE – MUTTER: 『違和感』を言葉に落とす作業。
できうることなら、感覚を箱に詰めて、
相手にそのまま差し出せればいいのに、と思う。
もちろん、相手が分かる形で。
でも、コミュニケーションの殆どを、言葉に頼らざるを得ないがために、
その言葉と、感覚とは、必ず乖離するし、
言葉を通して相手が受け取ったことと、自分の感覚も、必ず乖離する。
それはもうどうしようもない。
そのたびに、少しずつ、埋めていかなければいけないのだ。
もし仮に、外に出せる言葉と同じモノとして、
言葉で物事を考えてる人がいたとしたら、それは凄く羨ましい。
僕には絶対出来ないなぁ。
絶対に、感覚が先に来て、必ず、翻訳なり圧縮なりの作業が必要だもの。
でも、だからこそ、伝わらない事実を、把握できているのかもと。思う。
伝わらないことに対する、納得…というか、対策も含めて。
もし全部言葉で考えられたら、
『何で俺の言うことが分からないんだ?君の読解力に問題があるんじゃないのか?』
って絶対思うだろうしなー
なお、
しかし全てがそうかというと、それも違う。まず触覚、嗅覚、味覚の三つに関しては、ずっと「バイナリー」感が強い。セックスというのは五感を全て使うが、印象が強烈なのも当然だろう。「百聞は一発にしかず」というわけだ。という点に関しては、
僕は、言葉を介していない場合のみ、“バイナリ感”がある。
これはまさに、感覚をそのまま届ける(共有する)から。
それを言葉に起こしたときに、
『つるつる』『スベスベ』というように、
表現が変わることはあるだろうけど、
1つのモノ(この場合なら肌の触感?)を共有している事実には、
変わりがないからね。