『首振り』と聞いて思い出すのは、扇風機か、『NO』のサインだけど、
ここでの『首振り』は、サッカー用語。
主に、MFに対して求められるテクニックで、
広い視野を獲得するために用いられる。
人間の視野角に関しては、いろんな数字が上げられているが、
しっかり認識できる範囲で、136度。
周辺視を含めた認識可能な範囲は180-200度と言われている。
でも現実には、誰もが知っているとおり、
左右360度、上下360度に渡って世界は広がっていて、
僕らの見ている世界は、そのうちのわずかでしかない。
(仮に上下左右136度だとすると、全体の15%程度だ)
だから、より多くの情報を得ようとすれば、
『首を振ること』が頻繁に必要になってくる。
サッカー選手で言えば…
例えば、パサーとしてのMF、中田英寿や、中村俊輔は、
パスを通す場所が『見えている』わけではない、
彼らはそれを探して、見つけ出しているのだ。
もちろん、どこの辺りから見ればいいかというのは、
才能でありトレーニングの結果であるとは思うけれど、
あくまで、していることで、意識下にあることだ。
日常生活で言うと、
何となく見えているものを、見ていると勘違いして生きていることが多い。
僕自身ももちろんそうなのだけど、
『近すぎて見えない』
というのはつまり、解っているはずという思いこみにより、
それをきちんと見ることをさぼっているために起こる現象。
いろんな面白い物や、新しい物を発見するのは、
能力ではあるけれども、それと同時に、技術でもある。
普段歩いている道すがらに新しいカフェが出来ていたとしても、
それを見ていなければ発見は出来ないし、
普段から見ていなければ、それが新しいかどうかも解らないだろう。
見るというのは、同時に継続的な行為でもあって、
僕らが情報を手に入れると言うことは、その場その時の対応だけではなくて、
前後と比較し、何か他の情報を生み出すためでもある。
何か、社会学的に理由があるのかどうかまではよくわからないけれども…
そういうことをさぼっている人は、街に非常にたくさんいるような気がする。
もちろん、何も知らなくても生きていけるのだけど、
僕の場合、興味や好奇心がその結論を許さない。
日常生活に諦めているのかな?
毎日同じで変わらない生活、よく聴く言葉だけど、
半分は真実だが、半分は真実ではない、
仮に日常を皆で共有しているとすれば、
誰かにとって毎日何かが起きているなら、
日常が単一であり続けるわけはないし、
変化を見逃している、または、
自分の生活に興味を失っていると言うことではないのかな、と。
僕のように、バカみたいに見た物、感じた物を書き殴る必要はない、
寡黙で良いのだけど、
本当になにも感じずに、話すことが無くて黙っているのとは意味が違う。
あなたは毎日、何かを感じていますか?
感じていないなら、
もう少し、首を振って生活すると良いですよ。
きっと、何かが変わっているはずだから。