人格と価値観の多様性

たくさんの人間が自分の中にいることは、誰でも良くあるのだけど、
多重人格と違うのは、様々な価値観があるだけで、
いろんな人格があるわけではない、ということだ。


PCでたとえて言うなら、いろんなOSが載ってるのが多重人格で、
OSは1つだがいろんなアプリケーションが入ってるのが
『価値観が共存する』と言うことだろう。
1つの画像を加工するのにも、Photoshopと、Fireworksと、フリーウェアでは、
サイズや色合い、減色のうまさ、その他色々と違う。
元は1つなのに出力は様々になる。

しかし、OSやアプリケーションに何らかの欠陥があるのか、
と言うとそうではなくて、それは、それぞれが、
それぞれなりの価値観を持っていると言うだけだ。

1つのことに対して2つの価値観が存在することは、当然だが不自然ではない。
例えば、灰色という色に対しては、
状況によって『明るい』『暗い』という2つの価値観があるし、
『明るいかもしれないが暗いとも言える』という価値観も存在する、
どちらかを決めなくてはいけないのなら、
自分の中で2つの価値観が対決し、
何らかの根拠を盾に一方が主張を押し通すことになる。
根拠や、動機が十分でない場合には、どちらでもないという回答もあるかもしれない。
(状況にも依るけれども)

これは、色ではない、もっと大きくて複雑な問題であっても変わらない構造だし、
当たり前だが、人格ではない。


人格というのは、恐らく、そうした価値観を束ね持っている存在で、
人格と価値観は相互に依存している。
人格が価値観を生み出すも言えるし、価値観が人格を作り上げるとも言えるだろう。

でも、異なる人格から同じ価値観が生み出されることもある、
世間一般を眺めればわかるとおり、
1つの価値観に対して1つの人格が対応するようなことは滅多にない、
もしそんなことになったら、
複数の人間が出席する会議なんて、上手く行きっこない。
(価値観が多様すぎてしまう)


一般的に、人格というのは取り替えようがない。
欠陥が発覚したからと言って、アップデートすることは出来ないし、
最新版に乗り換えることも出来ない、
古いOSで動く人はあくまでそれベースでアプリケーションを動かすしかない。
実際問題、どんなOSにだって欠陥はある、
OSの欠陥をアプリケーションで埋めるのは難しい、
ただ、アプリケーションの動作において、
欠陥の影響を極力小さくするようにすることは出来るだろう。

上手く動かないアプリケーションを、一時的に使用不可にすることも可能だろうし、
もう使わない、と決めたなら、アンインストールすることも重要だ。
OSの欠陥を嘆いても始まらない、変えようがない、

必要なことは、どうしたいか、を認めるだけだろう。
例えば、『何も出来ない』と言うことは簡単なのだが、
その前にまずやりたいのか、やりたくないのか、というポイントがある、
そして、やりたいのなら、やり方に問題があるということになるだろう。


人間をコンピュータにたとえることに抵抗のある人もいるかもしれない、
でも、もともとは、人間を模して作られたのだから、
有る程度似ていることは仕方がない。
僕らは、コンピュータのようには合理的に出来ていないけれども、
たまにサボタージュに入ったり、いきなり治ったりするように、
コンピュータも結局訳が分からない、その点では同じだ。


この文章で言いたいことは特にないが、
自分の中に多様な価値観を認めることは、非常に大事だし、
違いの理解を、擬人的なやり方に頼るのは、
時間稼ぎにしかならないということを書いておきたい。