その人の言葉に繰り返し出てくることは、
その人に欠けていることである場合が多い、
というある教師の話を本で読んだことがある。
例えば、『僕は自由だから』『僕が自由になるために』
と言い続ける生徒は、
本当は自由でなかったり、
自由という意味がわかっていなかったりするそうだ。
『そうありたい』と『そうだ』が混ざってしまっているのかもしれない。
俺はその重要性を訴え続けているくせに、
コミュニケーションというものを信じていないような気がするし、
上手くコミュニケートする自信もない、
というようなことを考えたとき、
ふと、そういうことを思い出したのだった。
そう考えてみれば、教師と対決し、
色々なものを勝ち取ろうとしていた中学生の頃、
僕らはよく『自由』という単語を口にしていたと思う、
僕らが勝ち得たモノはノーチャイムで、
勝ち取れなかったのは私服通学と
生徒会への教師の関与の完全排除、だった
確かに僕らには自由はなく、自由が何かもよくわからなかったけど
自由になっても困らなかっただろう、
きっと0からすべてを作り上げただろう、
そういうエネルギーがあった。
一般的に見て、僕には、
コミュニケーションと、冷静さと、モラルが欠けているが、
逆に言えば、それらがなくても、
図太さと、流ちょうな理屈があれば困っていないかもしれない。
僕はこうして文章を書くことで、
自分の冷静沈着さをアピールしてるみたいだが、本当は、
こうして文章を書くことで、
そうあって欲しいと、確認してるのかもしれない。
それでありながら、わかっていながら、
敢えて、暫く、コミュニケーションを拒否しようと、思う。
コミュニケーション、できません。
(『希望の国のエクソダス』)