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他の人がどういうかは知らないが、エントリーシート/履歴書を書くという作業は少なからず自分を見つめる作業である。同じように、学校の授業、試験、入学試験、入社試験、などで書く小論文、レポートも自分を見つめる作業だ。勿論、それらは慣れてきてしまえば、ただの『作業』になってしまうのだが。
まず、『自分が何をやりたいのか?』というコトから始めなければならない。いやものによっては、『どこに行きたいのか?』とか色々あるが、ひとまず自分の意思を確認する必要がある。そしてそれから、『自分は何者なのか?』ということについて考えることになる。そこにある設問『当社を希望した理由』『何々について思うことを書け』などに対する答えだけでなく、自分の長所と短所を自覚し、長所はさりげなく披露し、短所はさりげなく隠さなくてはならない。これが意外と難しい。書くのも難しいが、正直に言って自分の長所なんて分からないのだ。他人が言ってるから多分それが長所なんだろう、とか、その程度だ。勿論、エントリーシートを書くときにはそこまで厳密にする必要はなくて、嘘であっても分かりやすく明確に書けばよいのだから苦労は少ない、でも別にそんな講義をするつもりはないし、必要もないので、やっぱり苦労することになる。
名前や、性別、現住所や、持っている資格、電話番号、それから特に証明写真の貼付、そういったことも、表向きは相手に自己紹介・事故の情報を開示する、という作業だが、実際にはそれを通した自己の再確認である。例えていうなら、『男』という性別について、深く実感してる人などいるのだろうか?それはつまり、皆で僕らのような特徴を持つものを『男』と定義し、呼び合っているから僕らは『男』なのであって、もしこれが『女』と呼んでいたり、『身長165?以上が男』などと基準が違っていたりすれば、僕らが男、という話も揺らいでくる。たかだかボールペンで丸を1つ書くだけの作業で、そこまで考える人はいないだろうが、いやしかし考えようによっては、そこまで深い問題にもなりうるのだ。
名前・証明写真に至っては、そうか、これが己か…とそこでようやくわかる。人が鈴木一平と呼ぶこの有機体はどうやら人間という生き物で、こういう特徴をしているらしい、と言うことだ。これも有名な話だが、僕が鈴木一平なのは、生まれたときからそうなのではなく、誰かが命名してくれたからでもなく、直接的には、『皆がそういうから』という極めて受動的なことでしかない。もし、周りの人間全てが『君は鈴木一平ではない』もしくは『君なんて知らない』と言い出したら、僕は(勿論あなたも)自分が誰だか分からなくなってしまうだろう。そうならないよう、まだ自分を取り巻く環境になっていない人達へ向けて、皆はこれを鈴木一平と呼んでいますよ、そう知らせること、そしてそう呼んでくださいと要請すること、なのだ。
ここまで読んだ賢明な(そして愚かな)人ならお察しの通り、50%くらいは冗談で書いている。マジメに読んでしまって、さらに悪いことに納得してしまった人には、大変申し訳ない。しかし、一方で残り半分では、『そうかもしれない』とも思っている。これからも、エントリーシート/履歴書またはそれに類する自己情報の開示の場面に、数多く遭遇することだろう。流してしまえばたった数分のことだが、その片隅でこんなコトもちらりと考えてみたら、書き飽きた自分の名前も、少し新鮮に見えてくるかもしれない。