先日、ほぼ日のコラムで糸井さんと対談されていた、
丸山茂雄さん(mF247)のエントリの中で、
糸井さんのネットに対する思いをまとめた書籍が紹介されていた。


丸山茂雄の音楽予報 - 「インターネット的」の1

丸山茂雄の音楽予報 - 「インターネット的」の2


この本、僕は未読なので、内容に関しては何とも言えないのだけども、
(今日、後で本屋によって探します)
その上で、何となくの違和感を無責任にも書くけれども、
丸山さんも書いてらっしゃる、
ネット周辺の人々の、この本に対する印象、
これって、なんとなく、『糸井重里』の意図から外れているような気がした。

いや、まぁ、単にほぼ日を、『ほぼ毎日読んでいる』と言うだけで、
別に糸井さんと知り合いなわけじゃないので、
実際にどうなのかは、対談された丸山さんの方がよくご存じなのだろうけれども、
ただ、僕が思うのは、きっと、『糸井重里』というひとは、
ドッグイヤーとか、ネットだからとか、
そういうことに重点を置いて、物事を考えていないんじゃないだろうか、と言う気が。

ビジネス…というか、自分がやりたいことを展開していく上で、
それが『インターネット』というモノの上に乗っている以上、
その展開方法においては、それをどう利用するか、と言う方向になるだろうけれども、
それはあくまで、オプションであって、
最も大事なことは、結局は、例えば人と人との関係であったり、
誠実さを失わない活動であったり、
色んなことをおもしろがる姿勢であったり、
そうした、実はネットとは関係のない、そういう要素なんじゃないのかな、と思う。

糸井重里の著書を、『インターネット的』に読み解く、というのもアリではあるけれども、
大事なのは、インターネットではなくて、人なんだ、という要素を汲み取らなければ、
2006年に読んで解釈した内容も、結局は、
周りの人間が、自分に都合の良いように解釈しているだけ、
つまり、『自分たちが今思っている方向にネットは進むよな』、
そういう思いこみを助長して、
『へー』で終わってしまう気がするんだよね。


もし、世の中のネット関係の人が、皆、
『この本は今のネットを予言した』
と思って、それで終わりにするんだとしたら、
この本は、5年後にも、
『この本は今のネットを予言している』
と言われると思う。

で、それは実際には、
技術に走りがちな各サービスが、人メインに戻ってくると言う、
単なる周期を示すフラッグでしか無くて、
糸井重里の意図は、結局、ごくわずかな人間と、彼だけしか理解できない、と。


と、本を読んでないにもかかわらず、
ここまで書いてしまう僕の無責任さ加減も相当なもんだけど(苦笑)
でも、なーんか違う。
見通すとかじゃないんだよ、きっと。

『糸井重里』というヒトに対する、『希望』も混じってるけど。


読了後、また追記したいと思います。