ECDはこう言った。

『GATE02』に収録されているECDコラムを一足先にWEBで公開した。 その中に、印象的な言葉遣いがあったので引用しておく。 ECDらしい考え方だし、また僕自身の思いにもかぶる(ECDの方がより深く考えているけれど) コラムとしても面白いので、良ければ読んでみてください。

「楽しみ」として供せられる音楽に対して限りなく横柄になっていくリスナーと呼ばれるひとたち。
例えば僕は最近、音楽誌等で音楽を語る言葉がグルメ評論家が料理を語る言葉と同じになってしまっていることがたまらなくイヤだ。美メロなんて言い方が大嫌いだ。音楽をサプリメントか何かのように扱い、実効性を求める。自分に合っているかいないかだけで評価する。クラブ・ミュージックというジャンルも、目的が踊らせることに特化しているからどうしても実効性に評価がかたよりがちだ。
これは、過去のインタビューや、1回目のコラムでECDが書いていたことともかぶるのだけど、 それまでは、曲を聴いて初めの何秒かでDJとして使えるか判断し、 それでOKが出たものだけを買う、そういう買い方をしてきた…と言っていた。 要するに実効性重視の音楽選択だ。 僕自身もそういうことをすることがある。 試聴をしていて、フロアが思い浮かべられれば、買い。そうでなければスルー。 その音楽が良いかどうかなんてことは二の次だ。 全ての音楽にそうして接しているわけではないけど、 自分の好きな曲と好きな曲の間を埋めるためにかけられる曲達は、そうして選ばれる。 なんて、不幸な音楽選択だろう、と思う。 僕には、ECDが言うような、 実効性を求めない音楽、という感覚をまだ上手く共有できない。 自分に何も与えようとしない音楽をなぜ買うのか、 もしその音楽を買ったとして、そして聴いてみて、自分は何を感じるのだろうか? その感じたものは与えられたものではないのか、いや、 それはそれとして、この場合彼が述べている奉仕とはもっと別のものか… そうしたことをまだ上手く捉えられないが、 でも彼の書き表そうとしたことは、少しわかるような気がする。 だから僕も、ファッション誌のコピーをディスるんだろう。

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全ての終わり、そして始まり。

物語は、時に、突然の終わりを迎える。 ただし、もしこれが小説であったのなら、という話だ。 現実世界では、ページが尽きることはない。 たとえ終わりを錯覚したとしても、時は非情なまでに淡々と流れていく。 全ての終わり、そして全ての始まり。 小説における終わりとはすなわち、状況の停止、だ。 小説とは、文字に沿って状況を変化させていくことに意義があり、 その変化が止まる地点が終わり、だ。 ところが我々の世界には、変化の止まる地点がない。 たとえ1人が人生を全うし命を落としたとしても、 その人を含んでいた状況の変化が止まるわけではない。 にもかかわらず、僕らは、時折、『終わり』を感じる。 在りし日の情景を思い浮かべ、現在の状況までの変化を感じ、時に悔い、 その状況を変化させることはもう出来ない、と、錯覚する。 だが、冷凍庫に放り込んだ魚でさえ徐々に痛むように、 変化しない状況など、ない。 僕らの世界では、過去に起きたことでさえ、変化する。 過去に起きたことは全て確定したもの?それも、終わりの錯覚だ。 変化しないものは過去ではない。 物語は、突然の盛り上がりを見せ、また同じように突然の終わりを迎えた。 僕自身にはとても追いつく暇はなく、 目で追っている間に、いつの間にか、状況は変化を拒否していた。 僕の目の前を、猛スピードで通過していったそれは、結局コントロールが効かなくなり、 前方の壁に激しく衝突した、のだ。 ただ、先に述べたように、我々の世界に終わりはない。 たとえ、人類が滅びようとも、それは終わりなどではなく、ただの錯覚だ。 時は流れていくし、状況の変化には何の変わりもない。 僕は変わらずに煙草を吸うし、 煙を吐きながら、今もここに立っている。 全ての終わり、そして始まり。 状況は、今も変化し続けている。 変化を拒否しているのは、自分自身なのだが。

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コンプライアンス – 分かりやすい日本語。

ITmediaニュース:「全然変じゃない!」──エイベックス流コンプライアンス
「インチキするな」「弱いものイジメはするな」──エイベックス・グループ・ホールディングスが4月11日発表した、グループの新コンプライアンス(法令遵守)ポリシーには分かりやすい言葉が並んでいる。企業のコンプライアンスポリシーは堅い表現になりがちだが、エイベックスのポリシーは「僕たち自身が本当に納得できる」(松浦勝人社長)という内容を身近な表現でまとめた。>> 記事を読む
一時期話題になった、AVEXの松浦氏。 相当に人望のある人のようなのだけど、この人がまとめると、 企業コンプライアンスもこうなっちゃうという例。 やっぱり、誰もが薄々感づいていて、 でも社会人なんだからやっぱり…なんて言う見栄で覆い隠していたことが、 『難しい言葉で書いてあるとわかりにくい』 ということでは無かろうか。 難しい言葉で書いてあると、なんだか内容も難しいような気がするけれども、 多分、このAVEXの物とさほど変わらないはずだ。 大体が、全ての社員に、浸透させることが目的なわけで、 わかりやすい言葉で書かれていないと意味がない。 配布した後に解説が必要になるようでは、 本来の意義を果たせないような… 音楽大量消費の象徴として、AVEXはあんまり好きになれない会社ではあるけれども、 この松浦氏という人は相当に面白い人のようである。

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NOBODY ORIGINAL

NOBODY:PLACEがblogになって9ヶ月余り。 昔より、過去の文章を読むのが容易になった。 だからたまに振り返る。 1年前の今日は、僕は何を言っていたんだろう… 2年前は?3年前は? 1年前は、失恋の痛みを必死で振り払おうとしていた。 と、同時に、 自分の周りにあるモノを現実的に見つめ始めていた。 2年前は、ひたすらに自分の内的分析と外的関係(コミュニケーション)について考えていた。 3年前は、デザインにはまってましたね。 僕にとってこのサイトはいつでも大きな存在で。 『近況でもお知らせしますよ』なんていう程度のモノでは決してないし、 あらゆること、人間的なことや、自分の技術的なことや、感性的な部分や、 そうした全ての面で僕自身をアピールする、履歴のようなもの。 僕は決してそう望んでいるわけではないのだけど、 僕がその時感じることを、素直に書き記してきたらこうなっていた、 ただそれだけのことだ。 それ以上ではないし、それ以下でもない。 後は、読む人間が決めることだ。 僕にとって、NOBODY:PLACE、そしてMUTTERの本来の姿とは何なのだろう? blogという形態をとることによって生じたもう一つの影響は、 どうでもいいようなことで、サイトを埋めるようになったことだ。 時事問題然り。新製品然り。 もちろん、それ自体に対する言葉は、確かに僕自身が感じたことで、 確かに僕の一部ではある、 でも、その多くは使い捨て、なのだ。 僕自身はそれを読み、そこに息づく自分の感性を感じることが出来るけれど、 これを読む友人達は、どうなのか。 僕は別にニュースサイトなんか運営したくはないわけだし。 僕はこれを読む、『あなた』に対して、 今、ぴったりの言葉を届けたい。 そして、その『あなた』というのは、多くの場合、僕自身のことだ。 このサイトにとって… 本来、読者というのはいないものなのだ。 それは決して、自慰的な、自分をさらすような、メモのような、そういうサイトと言うことではなくて、 見られていることを知っていながら、無視し続ける。 それはある意味で僕の生き方の一つでもあるし、 人との付き合い方でもある。 そして、逆説的になるけれど、 非常に大事なモノは、絶対に無視しない。 MUTTERはそういう考え方、そのものだ。 振り返って読み返すとき、 そうした想いが、今、希薄になってきているような気がした。 全ての人たちに、公平に、愛想良く、明るく、接することが出来る自分がいる。 僕は、そういう自分が、好きだ。 でも、公平というのは、全て同じということだ。 僕は、特別なものを、本当に大事にしているだろうか。 それを感じられない、気がする。 …そうか。 ここまで書いて、少し自分で自分に騙されていたことに気付いた。 僕は、数多くの文章を公開することで、 自分の想いを、隠していたんだな。 そんなことを暴露して良いのかどうか、よく分からないけど、 木を隠すなら森に。 最近の様々な読者の感想を、直接・間接的にいただいて、 果たして自分の伝えたいことが伝わっているんだろうか?と疑問に感じていた、 『is-You』から都合7年ほど続けてきたこのサイトの意味を失っているんじゃないかと、 少し不安になってきていた。 でも考えてみれば、 別に、伝わらない人には伝わらなくって良いんである。 こんな事書いたらまたブーイングだけど、 時事問題や、新製品のニュースを見て楽しんでくれる人もいて良いし、 僕の、本当にコアな、想いに対して、 真摯に反応してくれる人がいても良いわけだ。 ここを見る人が、過去ログをすべて読むような暇人なわけでもないわけだし。 (DIARYと合わせて3,200件を突破した) 楽しんでくれる人には、Helloを。 真摯にとらえてくれる人には、ThankYouを。 ここは、NOBODY:PLACE。 誰のものでもない場所。 見る人によって、見える景色はきっと違う、 見えているものは、その場所ではなく、 あなた自身の、心の風景なのだ。

追記: why is your name “Nobody”?
Nobodyとは、すなわち、誰でもない、ということ。 英語圏ではよく見かける表現だけれど、 日本語には、『Nobody』と相対する単語はない。 僕は、誰でもいたくなかった。 何か、名前の付いた何かになるくらいならば、 誰もが知っているけれども、誰も知らない、 そんなものになりたかった。 あなたの見る僕はどんな人間ですか? その回答は、あくまであなたの見る僕でしかないし、 あなたの友人が見る僕はまたそれと違う、 そのまた友人も同じように。 結局、僕というきっちりした存在は、この世には存在していない。 僕は、Nobody以上の何者でもないし、 本当のことを言えば、僕が見ているあらゆるモノは、Nobody/Nothingだ。 ただ、僕の友人はいつでも僕の前では、なにがしかの名前の付いたものだし、 同様に、僕自身も、あなたの前では、いつも、なにがしかの名前の付いたものだ。 だから、日常生活には支障はない。 でも、もし、それが間違いだったら? だから、いつでも、あなたには初めて出会わなくてはいけない。 あなたもまた、Nobody以上の存在ではないから。 僕にとっては。

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地球温暖化にもメリットはある?

Hotwiredの科学系コラムより。 Wired News – 地球温暖化にもメリットはある?( / ) – : Hotwired 長文で、文章の引用が難しいので、出来ればリンク先を見てもらいたいが、 このコラムは、決して、 『温暖化を肯定しよう』という人々の意見を採り上げているわけではない。 常識があり、理性を保った科学者で有れば、 温暖化は無害で有益だ、なんてことは言えっこない。 むしろ既に、多くの場面で影響を生じさせ、時にそれが被害になっているわけだから、 そうした現実を無視する時点で、科学的根拠を失っていると言える。

だが科学者の一部からは、地球温暖化による被害はもはや回復不可能な域に達している(PDFファイル)との意見も出ている。そこで、地球温暖化の現実を認める冷静な視点から、その利点を見つけようとしている経済学者や科学者がいる。そうしたメリットが地球全体に及ぶことはないかもしれないが、地球温暖化の有害な側面を補ってくれる可能性もあるという考えだ。
今後受けるであろう被害は甚大だし、 かなり現実に近い感じもあるが、 こうした前向きな視点もある程度は必要なのかもしれない。 温暖化を、避けるべき問題、として捉えるのではなくて、 今ある現実として捉えて、それでマイナスになっている点は何か、 プラスになっている点は何か、を、現実的に分析する必要がある、 既にそういう段階に入っていると考える科学者が少なからずいると言うことだ。

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孤独感の喪失。

僕らは孤独を失ってしまっているのではないだろうか? 現代人は孤独だ、とよく言われる。 一昔前の、家族や、地域の暖かさや、温もりが無く、 ただ、動いていく社会の中で一人生きているだけだ、 そんな印象が、頻繁に提示される。 だが、果たしてそうだろうか? 現実的な感覚で言えば、 僕らが、完全に孤独になってしまう場所、というのは、もうほとんどない。 山奥や、森林に分け入れば可能だが、身の回りにはない。 部屋で一人だったとしても、 そこにはテレビがあり、ラジオがあり、PCがあり、携帯電話がある。 常に何かに繋がれるし、自分と同種の生き物を確認できる。 どんな孤独でもすぐに紛らわせる。 僕らは孤独を失ってしまっているのではないだろうか? 驚くほど多くの人間が、自らの寂しさを主張するという事実も 暗にこのことを示唆しているのでは、と思う。 僕らは孤独を受け止めることを止めてしまい、 何かで穴埋めすることになれてしまった結果、 明確な孤独感というものを喪失し、 それを受け入れることが出来なくなっているのではないか。 僕は決して『常に独りでいい』なんて思わないし、そんなに強くもない。 でも、孤独は怖くないし、嫌いでもない、 独りでいるときの自分と、友達といるときの自分とは違うし、 独りでいるときの自分も嫌いじゃない、 孤独な時間を、孤独な時間として、受け止めたいと思う。 今、独りだからと言って全てを失ったわけではない。 ただ、少し、独りでいたいだけだ。

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Narcissism.

俺、自分が嫌い、とか言ってる割に、ナルシストだと思うときがある。 自分が書いた文章をよく読み返すこと。 もちろん、日記書いてるヒトが、自分の書いたモノを読み返すのと同じ事なんだけど、 ナルシシズム<narcissim>【自己陶酔。うぬぼれ、自意識が強いこと。】 でもたまに、自分の書いたモノを読んで、そうそう…、とか言ってる。 まさか、自分の姿に恋して焦がれ死に、水仙になる…何てコトはないけど、 自分の書いた文章、それに対して思ったこと、それに関する誰かの反応、 その時の状況、自分の書いたメール、それに対する誰かの返事、 それについて今思うこと、 そういうことを果てしなくしてるときがある、特にブルーなときには。 いまは別にブルーでも何でもないんだけどね。 俺、文章書いたらもう、俺の筆先から出てしまった時点で それは俺じゃなくなってて、だから何度読み返してもそれは自己陶酔じゃなくて、 そう、自然なんだよ、何てことも言ってみたりして、 でもそれが違うことを知ってる。 自意識過剰? 自分が嫌いというか…逆説的に、それを狙って言えば、 『自分みたいにはなりたくない』 と、思う。 かといって何かしてるかというと… 何もしてないんだけど。 まぁいいや、ナルシストでも何でも。

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the Hidden Side of the Concept

『No Cool No Tough No Kind』 BBSについてる表題。 裏コンセプト。 カッコつけない。強がらない。『不親切』。 不親切→気を遣わない、ということかなぁ。 拡大解釈してみれば。 言いたいことを言い、書きたいことを書く。 自分のために、ありのままの自分を書いてみる。 -- — 君は格好良くないんだから、無理にカッコつけなくていいよ。 君は強くないんだから、強がらなくていい。 気を遣いすぎる親切なら、なくたっていいんだ。 -- — 不親切。 このサイトにはbackボタンはないし、 どこに何があるかっていう説明もないし、 画像もほとんどないし、 誰にも言わないような仕掛けもあるし。 『ホームページは親切に分かりやすく』 くそくらえですな(笑) (2000.11.13.)

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