うれしーの『おばちゃん化』に対する日記が印象的だったので引用。
手前味噌ながら、日記アーカイブより。
(もちろん、著作権はHTBにあります)
親父が死ぬ2年くらい前、里帰りしていたぼくに、親父は、ぽつりと言ったんです。
「なぁ、女の人が年をとると、他人に対してお節介になるのは、どうしてだと思う」
おばちゃん化の特徴として、
基本的におばちゃん化することの利点は、やり逃げです。
一陣のつむじ風のように、感情移入して、大泣きして、気持ちよくなって、吹き過ぎたらそれで終わり。からりと次へチェンジできるんです。
こだわりは無いんです。理屈もないんです。あるのは共感です。人生の共有です。
しつこいんです。物凄い親切なんだけど、物凄い無遠慮なんです。お節介なんです。
ほっといてほしいと、若者が張ってるバリヤーを、見ない振りして、どんどんこっち側に入ってくるんです。
確かに。
僕みたいな、人見知りがちで、引っ込み思案な人間からすると、
時に助かるときもあるけど、
大体は、ものっすごくどうでも良い状況で、お節介を押してくる…よね。
もうなんか、こっちが苦笑いして、キレるのも忘れちゃうくらい。
それだけだったら、
『おばさんはしゃーねーなー』
っていうだけで終わっちゃうことなんだけど、
うれしーのお父さんの感覚が、なんかものすごく実感できて、
そうか、そうなんだろうなぁ、きっとなぁ、
と思った。
そのお父さんの台詞は、
「きっとな、あれは寂しいんだ…」って、そう言うんです。
寂しいから、急に他人と仲良くしたくなるんだって、親父は言ったんです。
親父も自分が病気で、多分、もう良くはならないだろうという自覚がありましたから、ある時、「おばちゃん的な想いと同じもの」に、自分で出くわすことがあったんだなって、その時思いました。
みんなどっかで「自分の持ち時間が残り少ないんだ」って、気づく年齢というのがあるんでしょうね。そのことに気づくと人は寂しさをおぼえるようです。そうすると、そばにいる人と仲良くなりたいと思ってしまう。誰とでも仲良く出来るはずだと思ってしまう。
仲良くなれたら一人じゃないって思えますから。
それが、おばちゃん化の動機なんだって、その時、親父は言いました。
最近ね、母親がしきりにそう言うことを口にするんですよね。
体はちっとも悪くないんだけど、
悪いと言えば、もうずっと患ってる喘息くらいなんだけど、
周りの人というのは、意外なほど死んでいくみたいで。
僕が知らないような、『妹の同級生の母親』とか、『名前だけ聞いたことある知人』とか、
そういう人が亡くなったとき、それを報告するために僕に電話をしてくる。
または、メールをしてくる。
僕はそれを邪険にすることも出来ずに、
かといって、かけてあげられる言葉もなくて、
何となく呆然として受け入れているのだけど、
でもきっと、そういうことなんだろうな、と思った。
あいにく、母親はそれほど『おばちゃん』ではないのだけど、
寂しさの表現方法はきっと、『おばちゃん化』だけではないから、
きっと、そんなことを感じてるのかもなぁ、って。
僕自身は今も昔も、
『たくさんの友人に囲まれていないと安心できない』とか、
『とにかく誰でも良いからそばにいて欲しい』とか、
そういう感覚を持つ人間ではないようなのだけど、
であっても、なんとなく、
頼りなさげで、誰かを求めてしまう、
『おばちゃん化』のような感覚は理解できる気がした。
今年も、旅行に出掛けるけど、
何となく…いろんなところで、色んなことを感じると思う。
この話もきっと、そのひとつ。
もし、あの日、親父が言ったとおりだとしたら、
寂しさも悪いものじゃないなと、ぼくは思います。
誰とでも仲良くしたいと、素直に欲求できるようになるのなら、
歳をとるのは悪くないと思います。
最後のうれしーの言葉は、なんか、希望があって良いなぁ。
僕は、年をとることは、ただ、死に近づくこと以上の意味があると、思います。
ま、まだ30にもなってない若造の意見だけどね。
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